V9時代の巨人は、長嶋、王に代表されがちだが、今と違ってバラエティに富んだ戦士が揃っていた。1964年に巨人入りした瀧さんは、内野手のスーパーサブとして、なくてはならない貴重な控え選手あった。ガッツあふれるプレー、意外性のあるバッティングでV9を陰から支えた。生涯打率1割8分9厘、15本塁打の数字だけでは語れない魅力あふれる熱血感だった。
引退後は二軍のコーチとして若手の育成に力を注いだ。藤田監督時代の89年、一軍コーチとして日本一に貢献した。
葬儀でお別れの言葉を述べた篠塚、川相さんは、瀧さんへの感謝の言葉を尽きせぬほどに語り続けた。
あまたの野球選手を見続けてきた私だが、その真価は引退後の生き方にあるように思える。現役時代の成績と名前だけで、TV受けを狙うスター選手がいる中、瀧さんは野球評論家としても優れた実績を残している。ことに、文芸春秋、ナンバーでの評論はスポーツジャーナリストとして卓越した視点を展開した。言わせてもらえば、野球人には野球だけの狭い範囲からの評論しか出来ない人がいる。ほとんどが、記者に書いてもらっているのだ。瀧さんはジャーナリストの視点があった。自分でペンを持ち、苦労して書いたのだ。
ファーストランナーという会社もおこし、絵画、骨董、花、ロゴ入りの雑貨品の販売も行った。いつも何かをしたい、いいものを人々に紹介したいという夢を追い続けていた。少年野球の指導と共に瀧さんのライフワークとなったものは、ガン撲滅のためのべべサンタクロースチャリティゴルフである。企業とプロ野球選手会の協力をえて、この15年、年末のプロ野球人のゴルフの会でガン撲滅の基金を募り続けてきた。末期ガンの患者さんのために、原さんや中畑さんの協力でホスピスを見舞って患者さんを勇気づけたこともある。臨終に際して、瀧さんの最後の言葉は「べべサンタの大会を、今年も頼む」だった。死の淵をさまよいながらも、瀧さんは人のことを考え、野球に関わる仕事に執念を燃やしていたのである。野球だけではない野球一筋の人生だったといえよう。
11月23日、24日の葬儀には、川上哲治、藤田元司、長嶋茂雄、王貞治、金田正一、原辰徳、堀内恒夫、高田繁、土井正三さんらV9を彩った方々が参列し、瀧じいちゃんに別れを告げた。
弔辞で王さんは切々と語った。「入団した時から、じいちゃんと呼ばれる風貌だった。派手さはないが玄人好み、控えだったがズバズバものを言う人気者だった。個性的な指導力、卓越した野球理論、じいちゃんは勇気を持って巨人批判もした。自分のことより人のためだった。」
享年62歳の「若いじいちゃん」、見事な野球人生に敬意を表します。そして、12月9日、10日のべべサンタクロースチャリティゴルフ、瀧さんの意思が今年も生き続けるように、私もマイクをもってお役に立つつもりです。 |