■ Column No.233 (2007/07/10デイリースポーツ掲載分)
● 呉紀行

 かれこれ、20年ぶりになるのだろうか、先週、広島県・呉市を訪れるチャンスに恵まれた。「呉郷会」という呉市の経済団体の総会での講演だった。 
広島に勤務していた昭和57年から60年までは、毎月、いや毎週のように呉に出かけていた。音戸の赤い橋を渡り、江田島、倉橋島、豊島などへ釣りに出掛けていた。夜、波止場から波止場を釣り歩くので、勤務が終わってからも、「夜釣り」に精を出したものだった。
 勿論、仕事でも出掛けた。呉二河球場は、あの南海ホークスが春のキャンプを張っていた。2月の呉はお世辞にもキャンプ地に相応しいとはいえなく、寒いし、瀬戸内を渡る風は冷たかった。オープン戦の放送はスタンドに放送席を作るので、ガタガタ震えて喋ったのが懐かしい。広島カープが暖かい宮崎・日南へ行くのに、かって強かった南海が、何故、肌寒い呉でキャンプをするのか、訝しく思ったものだ。野球だけでなく、日新製鋼のハンドボールが強かったので練習の取材やインタビューにも訪れた思い出がある。
 でも、呉といって私が懐かしむ一番の理由は、お世話になった恩師・鶴岡一人さんの出身地だからだ。鶴岡親分を囲む「ちょうちん会」の皆さんにと、それはそれは、楽しく、為になるキャンプ取材の旅をさせてももらったものだ。人情監督といわれた鶴岡さんは、日本のプロ野球の歴史を作った偉大な方だったが、放送や新聞などのマスコミの世界でも、アナウンサー、記者、プロデューサーに数々の影響を与えてくれたのだ。
 「型どおりの放送はつまらんのや。特徴が無ければあかん。だから、打ち合わせやテストは、わしゃせんでええ。同じことを二度喋ったら面白くないじゃろ」「ベンチにわしが行ったら、皆、気を使うやろ」といって放送席から見ていた。しかし、その眼光は厳しく、「あんたぁ、西本監督にちゃんと話を聞いとったな」相方のアナウンサーの動きまで、よおく見ておられた。それでいて、情報はしっかり入手していた。昔の部下、新聞記者、殊にフロントや裏方さんの話を大切にしておられた。若造のアナウンサーがどう頑張っても手に入らないネタばかりだった。厳しさと心配り、言葉への配慮、今でも、私のマイクでの教科書は「親分の解説」なのだ。最近のプロ野球放送は、データや談話が多く、きちんとやってはいるものの、大所高所からの「濃くのある一言」が少なくなったように思えてならない。
 久しぶりに「親分の眼光」を肌で感じつつ、呉市の皆さんに「プロ野球監督のリーダー論」をお話してきた。親分は、どう聞いてくれましたか。



--- copyright 2001-2007 New Voice Shimamura Pro ---
info@shimamura.ne.jp