■ Column No.223 (2007/05/01デイリースポーツ掲載分)
● 再び、世界一へ

 柔道の全日本選手権でアテネ五輪の金メダリスト・鈴木桂治が昨年のリベンジを果たし2年ぶり3回目の優勝を飾った。優勝インタビューで「日本で一番強い男が世界一でないと許されないのが柔道」という発言を聞き、鈴木選手の心技体の充実を垣間見たような気がして嬉しかった。昔、神永昭夫がヘイシンクに押さえ込まれ「日本柔道敗れる」というシーンは、忘れられないのだ。
 鈴木は昨年のこの大会で国士舘大学の後輩の石井彗に破れ、柔道への情熱も薄れ、約8ヶ月競技生活から離れていた。その間、国士舘の大学院で学びながら自分を見つめ直していたのだろう。
 実は、私は国士舘大学の客員教授として、「スポーツジャーナリズム論」を教えているのだが、なんと私の講義に「鈴木桂治君」が受講していた。オリンピックで鈴木大地、岩崎恭子、清水宏保と金メダルの実況はやったのだが、金メダリストに教えるのは初めての経験だった。客員なので、2月に集中講義をしたのだが、その頃には鈴木選手は復活に向けて柔道中心の生活に入っていた。厳しい練習と海外遠征の中で、講義に出席するのは大変だったはずだが、立派な態度とスポーツに対する見識は「さすが、金メダリスト、世界の舞台で戦っているだけある」と感じながら、私は観察していた。
 学生たちとのディスカッションやリポートの中で鈴木君の印象に残るコメントかあった。一つはスポーツとマスコミとのかかわりだった。昨年の全日本で敗れ、怪我に苦しんでいる時、「鈴木はもう終わりだ」というニアンスのコメントが新聞紙上にのり、「自分はもう駄目なのか」と絶望感を味わったという。暫く柔道から遠ざかったのも、社会やマスコミの評価が影響を与えた一因にもなったのだろう。選手を生かすも殺すも、マスコミのさじ加減、「選手を持ち上げすぎたり、消耗品のように扱って欲しくはない」と鈴木選手は訴えていた。また、トップレベルの選手にも、鋭い見方をしていた。トリノ五輪に向かう選手が「五輪を、競技を楽しんできます」というのは「いかがなものか」という疑問符である。五輪を初めとする日本代表選手は個人の資格で出場しているのではない。ギリギリの勝負に臨むのに「楽しむ」という感覚は、確かに誤解を招く言葉なのだ。緊張し過ぎてはいけないのだが、「個人的に楽しまれては」駄目だよということだろう。私も以前から同じ意見を言い続けてきた。
 柔道から離れ「柔道しかない」と確信した鈴木桂治選手、世界選手権、その先の北京五輪を見据えて「世界一」を目指して欲しい。「先生」としてではなく、今度は「スポーツジャーナリスト」として、「柔道家・鈴木桂治」を見つめて行きたい。



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