Column No.149 (2005/10/26デイリースポーツ掲載分)
◎ 甲子園の出会いから

 港町ブルースの気仙沼とラグビーで知られた釜石の間に、東北・陸中海岸の漁業の街・大船渡市がある。「一度、のんびり遊びに来ませんか」と旧友の佐藤隆衛先生に誘われていたので、日本シリーズを横目に出掛けてみた。今は大船渡市の体育協会の会長をしている佐藤さんは、岩手県立大船渡高校の野球部監督時代、春のセンバツでベスト4のティームを作り上げ、雪国旋風を巻き起こしたことがある。佐藤さんは高校球児だったが、大学では合唱団で歌っていたというユニークな経歴の持ち主だった。準々決勝の明徳義塾戦を私が放送することになり、偶然にも大学は違っても同じ指揮者のもとで合唱をやっていたことが分かった。
 以来、私たちは甲子園がとりもつ縁で親交を重ねて20年になる。あの時、大船渡は1対0で勝ち、甲子園に校歌を流した。それも、今までにない監督自らがピアノを弾き、選手たちが歌いあげた校歌斉唱が甲子園に流れたのである。恐らく、大船渡が史上初のティームだっただろう。佐藤監督は野球と合唱の夢を、同時に甲子園で果たしたことになる。さわやかな雪国旋風と歌声のようなハーモニーのティームだった。
 再会の宴は東北の旨い魚と酒、当時の思い出話で盛り上がった。「あの時は選手にも恵まれました。今夜は2人やって来ます」と佐藤先生。当時の千葉コーチ、打の中心だった今野選手と吉田捕手も練習後、駆けつけてくれた。今野さんは、卒業後早大、吉田さんは筑波大で活躍し故郷へ戻った。
 今野さんは佐藤先生の後を継ぎ、長く大船渡の監督を務めたが甲子園への道は遠かった。昨年から吉田選手が母校の先生になり、監督を引き継いだ。最近、東北の高校球界は県外からの選手や監督を移入する私学がふえ、大船渡のような県立高校には厳しい時代になっている。吉田監督の下、ベスト4まで進んだ今夏、恩師の期待の眼差しがなんとも優しく慈愛に満ちていたのを私は感じた。
 翌日は佐藤先生と一緒に廣洋館という旅館に泊まった。その支配人は熊谷立志さんといい、甲子園で15番をつけてベンチ入りした選手だった。前夜、千葉コーチが「打席で空振りした瞬間、打ったぁ」と叫ぶ「大声と元気だけ」が取り柄の選手でしたと話してくれた。控えの選手までは、さすがに私も覚えていなかった。よく気のつく明るく元気のいい支配人、財津一郎さんにどこか似ていた。「声だけでベンチ入りさせて貰いました。甲子園の経験はどんな辛い時にも支えになりました」
 素晴らしい指導者だった佐藤先生に乾杯、再会を約し、私は東北の紅葉と温泉の旅を続けた。



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