Column No.133 (2005/07/05デイリースポーツ掲載分)
◎ 指導者への道

 日本陸上競技連盟の小掛照二名誉副会長が春の叙勲で「旭日中綬章」を授かり、その受賞の祝賀会が先週行われた。小掛さんは長年にわたり日本陸連の副会長として、青木半治会長の片腕となり、常にNo.2の存在を通し、青木さんが名誉会長としてひかれると、自らも名誉副会長になられた。なかなか出来ることではない。指導者として、日本の陸上競技の舵取り役として、その功績が高く評価されての叙勲である。
 小掛さんのもう一つの顔は三段跳びの世界記録保持者だったということだ。16メートル48は驚異的な記録だった。当然、オリンピックで金メダルは堅いと思われていた。しかし、メルボルン五輪では8位と惨敗した。学生時代だった私は「世界記録保持者なのに、勝負弱いなあ」とがっかりした記憶がある。スポーツアナウンサーになり、日本陸連のリーダーとなられた小掛さんとのお付き合いが始まったが、「何であの時負けたんですか」とは聞けなかった。ところが、祝賀会の青木半治名誉会長のお祝いの挨拶でその謎が解けたのである。
 青木さんは話された。「メルボルン五輪当時、私と小掛君は監督と選手の関係だった。世界記録保持者が惨敗したのだが、彼は一切言い訳をしなかった。それが、50年以上たったある日、ポロッと漏らしたんです。メルボルン五輪の時、踵を痛めていたんです」
 50年間、誰にも語らなかった秘話、生涯尊敬し続ける青木さんにさえ言い訳をしなかった小掛さんの人としての強さを感じざるをえない。風邪をひいたの、忙しかったからなどと、すぐ言い逃れをする自分が恥ずかしかった。
 挨拶の中で小掛照二さんは「日本中の期待に沿えず重い十字架を背負ってしまいました。しかし、私の現在のスタートは負けたことから始まりました。金メダルをとることは自分では出来なかった。今度は指導者として、選手を育て、金メダルをとるしかないと決意したのです。29歳の若い指導者から始まり、43年、選手強化一筋の道を歩いてきました。マラソンに始まり、アテネでは室伏君がとうとう金メダルを獲得してくれました。これからは、マラソンだけでなく、トラック、フィールドでも世界と戦っていけるところまできました」
 室伏選手のハンマー投げの優勝を小掛さんは特別な感慨をもって喜んでいたことを知った。それ以上に、もし、メルボルンで金メダルを獲得していたら、小掛さんは違う人生を歩んでいたはずだ。
 「旭日中綬章」も無かったかも知れない。負けたあと、「どうするか」。どうやら人生を決めるヒントはこのへんにもあるようだ。



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