Column No.122 (2005/04/20デイリースポーツ掲載分)
◎ 悲しみをこめて

 合唱指揮者の関屋晋さんが今月9日、心筋梗塞で亡くなられた。その道の音楽関係では著名な方で、合唱界の第一人者として、小沢征爾さん指揮のベルリンフィルなど世界的オーケストラとも親交があった方である。スポーツアナウンサーの私だが、学生時代は高校、大学と7年間、関屋さんのもとで男声合唱をやっていた。私たちが「オヤジ、オヤジ」と呼んで慕っていた懐かしい青春時代である。40年前は無名の指揮者だった「オヤジ」はその後、実力をつけ、評価をえて、私たちとは遠い存在になってしまうほどその道の権威になっていた。「オヤジ」のもとで歌っていなかったら、私は放送の世界に興味をもたなかっただろうし、音楽ディレクターの夢こそ諦めたが、スポーツアナウンサーになることもなかっただろう。人は出会いによって運命が開けるものだ。関屋さんは公演前の練習中に亡くなられたと昔の仲間が知らせてくれた。76歳、まだ素晴らしいハーモニーを作り上げて欲しかったが、好きな音楽の現場で亡くなられたと聞くと、幸せな大往生だったのかもしれない。オヤジの指揮が目に浮かぶ。「お世話になりました。オヤジさん」。
 4日後、福士敬章氏、マージャン店で急死の報を読み、ショックだった。
 私にとっては、思い出深い投手なのだ。NHKの鳥取放送局に勤務して駆け出しのスポーツアナを始めたころ、彼は名門の鳥取西高校のエース投手だった。智頭町の中学時代は捕手、高校では重いボールを投げる速球投手、甲子園へのチャンスだったが、当時はレベルの高い岡山県との東中国大会で破れ、甲子園への夢を断たれている。その頃は松原明夫といっていた。プロ入り後も暫くは松原、後に福士明夫の名前でプレーしていた。巨人では芽が出なかったが、南海、広島で活躍、十五勝を二度マーク、重いボールとカーブ、チェンジアップの緩急をうまく使っていた。後に韓国に渡りプレー、30勝した年もあったという。私が最後に会ったのは86年の韓国アジア大会の放送でソウルに行ったとき、競技場でバッタリ出会った。すでに、生活にも苦労が始まっているような口ぶりだった。「日本に帰ったら、ぜひ訪ねてきてよ」といったのだが、実現しないままだった。広島カープの二度の日本一に貢献、91勝を上げた投手が、マージャン店でただ一人、病死していたと聞くのはあまりにも悲しい。野球をやめてからは不遇だったのだろう。甲子園を目指す東中国大会の決勝戦、松原明夫の力投は報われなかったが、あの時の炎天下で輝いていた君の姿を忘れるものでない。青春はますます遠くなるようだ。    



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