Column No.118 (2005/03/23デイリースポーツ掲載分)
◎ センバツに思う

 「春はセンバツから」、誰が言い出したのか分からないが、NHK時代の実況中継で毎年のように言ってみたいフレーズだった。その選抜高校野球が今日から始まる。お天気はちょっと心配だ。春の日差しの中の開会式は、望めないのかもしれない。
 それにしても、このところの高校野球の人気は寂しい限りだ。松阪世代が最後の人気だったのだろうか。先日も大阪でタクシーに乗ったら、運転さんが嘆いていた。「お客さんと高校野球の話題を話すことがなくなりました。殊にセンバツはさっぱりですねぇ」高校野球が詰まらなくなったからではあるまい。スポーツの多様化でサッカーや大リーグ、さまざまなスポーツの国際大会が生中継で見られる時代になったから、スポーツファンの関心が拡大したことが考えられる。むしろ、「高校野球絶対」「巨人中心」「オリンピック至上主義」ではなくなるほうが好ましいように、私は思えるのだ。
高校野球は技術の基礎、スポーツの楽しさ、自立心、連帯感など、発展途上の若者を導いてくれる優れた、時代を読める指導者が必要だ。甲子園は「あこがれ」だから最大の目標となる。しかし、甲子園が全てではない。高校の指導者のあり方が、選手の将来に大きな影響力をもっていることはいうまでもないだろう。
 日本ハムのダルビッシュ投手がキャンプ中に喫煙など未成年としては許されないことを仕出かし謹慎の処分を受けた。現球団の指導性の問題もあろうが、明らかに高校時代の教育のあり方が問われるはずだ。野球だけの明け暮れだから社会性が身につかない。プロになるのだから、就職指導も疎かには出来まい。未成年がプロになるということをしっかり自覚させないうちはプロにさせてはいけないのだ。
 法政大学の暴力事件も根は同じところにあるだろう。多くの部員を抱える有名大学は、指導者の目が行き届かないことが多い。明らかに指導不足である。しかし、暴力を振るう芽は高校時代に芽生えているのではなかろうか。スポーツの上下関係、礼儀正しさは、時として絶対服従という権力になってしまう。指導者の愛のムチの鉄拳の意味をはき違えて、先輩、後輩の関係でやってしまう温床が高校スポーツに存在するとなれば、今はそんな時代ではないのだ。
 甲子園に創部2年で出場を決めた神村学園の長沢監督のインタビューは興味深い。「心がけていることは、毎日、必ず、部員一人ひとりに何か声をかけることです」簡単なようで、難しいスキンシップだ。
 春、センバツの健闘を祈りたい。



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