スイミングマガジン・「2012年07月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(07月号)
◎ 五輪参加と芸人根性

 先日、かっての著名なマラソンランナーや陸上競技関係者と話をしていて話題に上がったのは、猫ひろしさんのカンボジア代表取り消しの件だった。今回の猫さんのカンボジア国籍を取得して、しかも過酷なマラソンへのトライアルについては色々な意見や感想がある。競技への彼のひた向きな取り組み方、芸を売るパフォーマンスの手段、国籍を変えることについて、美談として大々的に取り扱うマスコミの在り方と、様々な視点からの意見が飛び交った。スイマーの皆さんはどう感じただろうか。答えは同じである必要はまったくないのだが、スポーツをやる選手にとって、また五輪とは何なのかを考える上で、そして人の生き方を見る点でも、興味ぶかい問題と言えるだろう。批判もあり、応援もあり、様々だった。

 お話をした日本のトップレベルだったマラソン経験者の方は、仕事を除いたマラソンランナーとしての努力と結果は驚異的だと評価していた。テレビ番組がきっかけで僅か四年の内に素人が、しかも三十歳を超えた年齢で一時間以上も記録を伸ばすことは、普通出来ないことだ。勿論、2時間30分26秒という記録はオリンピックレベルで語る数字ではないことは間違いない。しかし、短期間に陸上競技の経験のない人がこれだけの記録に到達するのは、凄いことだと絶賛していた。日本のマラソン界の低迷ぶりにがっかりしているから、猫さんの記録の向上を高く評価したのかもしれない。

 私も猫さんの一日30キロ40キロも走ってきたトレーニングは素人のマラソンや駅伝好きの走りしとは違い「よくがんばったなぁ」と感心する。ただ、批判をさせてもらうとすれば、本名の滝崎邦明で走ることと、競技者と芸人は切り離すべきだったと思うのだ。「ゴールでは最高の五輪ギャグをみせたかった」と語ったそうだが、これではマラソンは芸を売るための手段だったのかと思われても致し方ないだろう。尤も、五輪のマラソンの中継を何度もやってきた筆者に言わせると、国際映像に映るには余りにも遅すぎてゴールインが映るかどうかは保障できなかっただろう。ただ日本のメディアは独自のカメラを用意して必ず映し、恐らく翌日のスポーツ紙やテレビのワイドショーのトップを飾ることになるはずだったのだろう。

 私がこの問題に対して何かを提起するならば、メディアの報道の在り方であり、国籍についてである。国籍については国籍を変えて出場する傾向が中東諸国で数々起きてきたので、国際陸連は取得から一年以上立っていないと資格を認めないというルールを決めている。最終的に猫さんが引っ掛かったのは、ここなのだからやむを得ないことなのだろう。私が嫌なのはテレビやスポーツ紙が猫さんの力走を美談にしたてて、テレビマンが大好きな言葉「煽って、煽って」しまうことだ。これが猫さんのような「芸人」でなく、ごく普通の職業の選手だったら、こんなに大きく取り上げるだろうか。スポーツ紙やテレビのワイドショーのこの種の「煽り」を私はいつも嫌悪している。

 お笑いの静ちゃんこと山崎静代選手も女子のボクシングの代表におしくもなれなかった。アマボクシングの世界選手権の山崎選手の試合を映像で見たが、サウスポーに対して、やはり経験不足で勝負にまで持ち込めなかったように見受けられた。静ちゃんも猫さんと同様に四年前にテレビドラマでボクサー役をやり、ボクシングが好きになって始めたそうだ。まだ未普及の女子ボクシングでここまで短期間にトレーニングを積んできたのは、さぞや大変な努力と忍耐の日々であったことだろう。女子のボクシングは年齢の制限があるのだが、山崎選手の健闘で、国際ボクシング連盟も35歳の制限を見直すことも視野に入れているという。これこそ、静ちゃんの五輪は逃しても最大の成果を示したといえるだろう。日本のアマチュア連盟が「功労賞」を送るなどと報道されているが、ここでも芸人を特別な目でみていることはあるまいかと勘繰ってしまうのだ。極く普通の女性がここまで頑張っても、マスコミは大きくとりあげたのだろうか。

 二人の五輪へのトライに色々な応援や批判もあるだろう。私が強く感じたことは「芸人のど根性」に尽きるのだ。この根性をスイマーの皆さんは参考にできるかな。

 最後は昔の五輪選手の「根性論」で締めくくります。「古い奴だとお思いでしょう。最近は根性は古い、古い疎かにしてはいませんか」



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