ロンドン五輪の代表が次々に決まる中、パラリンピックへの注目度はまだ、それほど高くはないようだ。昨年十月、イギリスのジェレミー・ハント五輪担当大臣が日本に来た際、「パラリンピックはロンドンから始まったのです」と力説した。以前、パラリンピックのスイマーを主人公に著作を出した時にパラリンピックの歴史を調べたことを思い出した。
ロンドンで五輪を開くのは今度が三回目だが、1948年の第14回大会がロンドンでの二回目、そして、その大会の開会式の日にパラリンピックの起源となる身体障害者の競技会がロンドン郊外で開かれている。第二次大戦では、多くの兵士や民間人が戦火で死亡したり負傷した。戦争は国を破壊し、人の命を奪い、身体を傷つける。当時、イギリスにドイツから亡命したユダヤ系の医師ルートウィッヒ・グッドマン博士が負傷者の治療に当たっていた。手足を失うなど生きる望みなくしてしまった兵士達に博士は「失ったものを数えるのはやめよう。残されたものを生かすことだ」と説き続けた。初めは病院の中で患者だけで簡単な運動から始めた。今でいうリハビリに当たるのだろう。そして、患者は次第に選手になって行く。1948年7月28日、ロンドン五輪の開会式の日、ロンドン郊外のグッドマン博士の勤務するストーク・マンデビル病院の庭で「ストーク・マンデル競技会」が開かれたのだ。病院内の競技会が定期的に続けられていく内に、オリンピックと身障者スポーツ大会を結び付けていこうという機運が高まってきた。1960年のローマ五輪の後、その施設を使って脊椎損傷の選手が参加、23か国、400人の選手がプレーをした。この大会をパラリンピックの歴史では第一回に定めている。日本はまだ参加していない。
1964年の東京オリンピックから「下半身まひ」の英語とオリンピックを結び付ける造語から「パラリンピック東京大会」とネーミングする。日本は初めて代表を選んだ。ところが、その後、開催地がオリンピックの開催都市や国と違うようになってしまった。1988年の韓国・ソウルから現在の「パラリンピック」の姿になるのだ。「パラ」は「もう一つの」という言葉とオリンピックを組み合わせた。今では「もうひとつの並んだオリンピック」という存在になり、アテネ五輪からは「夏季オリンピックとの共同開催」という形にまで発展してきている。
グッドマン博士が播いた一粒の種は、今では当初の目的とは大きく変貌してきたと言えるだろう。オリンピックと比べるとその差がありすぎることは確かだが、スポンサーが付き、放送権料も付く競技も出てきた。障害者にとって世界最高の技と力を競う「もうひとつ」のオリンピックになり、「競技スポーツ」になってきたと言えるのだろう。
日本でパラリンピックの価値を高めた選手と言えば、水泳の成田真由美選手を思い出す方も多いだろう。アトランタ、シドニー、アテネ、北京の四回のパラリンピックに出場、15個の金メダルを獲得、しかも、泳ぐたびに世界新記録を出すという「スーパーウーマンスイマー」だった。彼女の「あきらめずに頑張る姿」は多くの健常者にも「勇気」を与えてくれた。全盲のスイマー河合純一選手も大活躍だった。こうして、競技性が高まれば高まるほど問題も出てくる。難しいのはドーピングだろう。本来は身体も心も「生かせるように」するためにスポーツに取り組んでいる。プレーするための機具が高価なものになる。実際にあった例では「障害の偽装」をした知的障害のバスケット選手が金メダルのメンバーだったこともある。「障害者のスポーツ」の種を播いたグッドマン博士は、天国からどんな想いでパラリンピックを見ているのか、アナウンサーの性でマイクを出してインタビューしてみたくなるのだ。
競技性が高まれば高まるほど資金が必要になる。文部科学省の五輪と厚生労働省のパラリンピックでは国からの支援の差は比較にはならないほどだろう。不自由な身体で働き、なおかつ、競技を続ける資金を得ることが、如何に大変なことなのかは、想像に難くない。パラリンピックこそ、勝つことも大事だが、大会に参加することそのものの価値が高いといえるのだろう。オリンピックが失ってしまう原点をパラリンピックは大切にしてほしい。そしてマスコミも、国籍を変えてまで五輪に参加するタレントを美談にとりあげるのは、ほどほどにして、パラリンピックの選手達の「生きざま」に注目して知らせて欲しいのです。 |