スイミングマガジン・「2012年03月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(03月号)
◎ ロンドンオリンピックの年開ける

 
 ロンドン五輪の年を迎えた。ロンドンで開く五輪は今回が三回目になるが、何故か日本とロンドン五輪は縁がなかった。実は、ロンドンは回数でいうと四回になる。

 1904年の第四回大会、日本はまだIOCに加盟していなかったから参加してない。次の第五回のストックホルムにマラソンと陸上のトラックに二人の選手が初めて出場したという記録が残っている。オリンピックの回数は開催されない大会も回数としてカウントされている。1940年の第12回東京と1944年の第13回ロンドンは戦争のために開かれなかった。それでも回数としては残されている。

 ロンドンで開かれた二回目の五輪は第二次世界大戦直後の1948年の第14回になる。この時、日本とドイツは第二次世界大戦を引き起こしたとして、IOCに復帰できず、五輪に参加することは出来なかった。日本水泳連盟の田畑政治会長は日本の代表派遣に東奔西走したがどうにもならず、せめて自分の出身母体の水泳で、五輪に招待されない無念さを晴らそうと、ロンドン五輪の水泳のスケジュールに合わせて全日本水上選手権を開催した。古橋、橋爪がロンドン五輪の優勝タイムを大幅に上回り、敗戦に打ちひしがれていた日本国民に大きな勇気を与えた話は、年輩の方ならよく知っていることだろう。昨年の東日本の大震災直後に「なでしこジャパン」が世界一になった経緯とダブらせてみると、判り易いかもしれない。しかし、そこには大きな違いがある。国際社会で認められなければ、戦いたくても参加できなかったという悲劇が厳然と存在したということだ。

 ところで、ロンドン五輪の歴史を調べてみた。かって私は、八回も五輪の大会で放送をしていたのに、古い歴史を疎かにしていたことが悔やまれた。第四回のロンドン五輪を調べてみて興味深いことが数々あった。五輪の歴史では第三回までは、選手は個人やクラブで参加していた。第四回のロンドンで初めてNOCとして、つまり国として参加することになったのだそうな。驚いたことに、大会は4月27日から10月31日まで半年以上にわたって開催された。まだ、各競技連盟が創立され、日が浅さかったためとみられている。ただ、第2回のパリ、第3回のセントルイスでは万国博覧会の付属国際競技大会として開かれたそうだから、いまの五輪のイメージとは遠くかけ離れたものだったのだろう。競技の中には私の聞いたこともない競技や、こんな歴史があったのかというものがある。「ポーム」という競技はどんなものなのか私には判らない。ラクロス、モーターボート、ラケット、ラグビーも五輪競技に入っていた。冬季五輪がなかったのでフィギュアースケートも行われている。陸上競技の種目に綱引きがあったのも面白い。フィギュアーが入っていたので期間が長くなったこともあるのだろう。

 ところで、水泳は第1回のアテネから行われているが、アテネは海、第2回のパリはセーヌ河で、第3回のセントルイスでは人口湖、第4回のロンドンで初めてプールが登場したというから、これも新鮮な驚きだった。ロンドンでは、メーンスタジアムのフィールド内に100メートルのプールが作られ、幅は15メートルだったそうだ。私は「100メートルのプールは何故ないのかな、ターンなしで8人が泳ぐのも見たいな」と以前から思っていただけに、やっぱり水泳も100メートルから始まったのだと納得した次第である。

 五輪を象徴するクーベルタン男爵の言葉はこのロンドン大会での発言からで、第一回のアテネで宣言されたのてはないということも知らされた。しかも、述べたのはクーベルタンではなく、ミサでタルボット主教がイギリスとアメリカの対立が激しく起こるので「重要なことは、勝利することより、むしろ、参加したということであろう」と述べた。その後、クーベルタンが大会役員のレセプションの席で、「ペンシルベニア主教の言葉は至言である。人生において、重要なことは、成功することでなく、努力することである。征服することではなく、よく戦ったかどうかにある。この教えを広めることで、一層、強固な、激しい、慎重で、より寛容な人間性を作り上げることが出来る」と演説したといわれている。

 この珠玉の言葉の真意をしっかり受け止めたい。「参加すればいい」のではない。如何に立派に戦うかなのだ。ロンドン五輪の歴史を調べていて、私には興味深いことが、沢山埋められていることを知った。皆さんはどう感じられただろう。過去があって、今がある。そして、今があるから未来がある。



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