心ならずもアナウンサーになってしまったのは、今から四十七年前、高校野球の地方大会で平松正次と森安敏明投手の凄い投手戦を見て、スポーツの素晴らしさに触れたことに始まる。「いいものを見たい、素晴らしいものに接していたい」それはドラマであり、スポーツであり、音楽であり、映画でもある。スポーツアナウンサーになってよかったと心底思うのは、毎年、心を揺さぶられるシーンに巡り合え、闘う選手の人間性をちらっとだけ垣間見ることが出来るからなのだ。
最近、テレビドラマでは、日系移民の苦難を描いたTBSの「99年の愛」が素晴らしかった。丁度、プロ野球日本シリーズの延長戦の大激戦と重なったので、チャンネルの切り替えに忙しかったことか。
映画では、人生に忘れ物はありませんかというテーマで、ハンセン氏病で五十年も隔離されていたトランペッターが、かつての仲間を探しあて、念願のステージで演奏するというヒューマンドラマ、全編に懐かしいジャズが流れ、主演の財津一郎さんの抑えた演技が秀逸だった。
昨年の一月号でも紹介したNHKの「坂の上の雲」の後半が始まり、かつてのスイマー藤本隆宏さんの堂々の演技に感心しながら、画面に引き付けられている。学生時代はスポーツも好きではあったが、映画や音楽に夢中になっていたので、いまだに趣味はドラマや映画をみることで、スポーツは仕事だからというのが本心だ。
藤本さんの役はロシア通の駐在武官で美しいロシアの令嬢と綺麗なラブシーンを演じたり、主役の木本雅弘さんとからむ国を思う心と友情などを見事に演じている。スイマーとしての藤本選手を私は数々の大会で実況し続けた。ソウル、バルセロナのオリンピック、パースなどの世界選手権、北京、広島のアジア大会、ユニバーシアード、日本選手権、特に北京アジア大会での個人メドレー二冠の金メダル、バルセロナ五輪の入賞は忘れがたい思い出だ。書斎に並んでいるスイマガの九十年代、藤本選手は何度か表紙に登場する代表的なスイマーだった。早稲田の大隈講堂をバックにオーストラリア・パースでの世界選手権のティシャツ姿は、今思えば「スター」のブロマイドだったといえるだろう。
二十歳の早稲田大学の学生だった頃、急激に記録を伸ばし「世界記録を出したい。まだ、誰も出していないから。オリンピックの金メダルは、もう大地さんが獲っちゃったから」とジョークとも本音とも思えるコメントを残している。スイマーとしてだけでなく、彼はスイマガにコラムも書いていた。私の「スイミングコラム」と並んでいた。九十五年頃だっただろう。藤本さんに感心したのは水泳だけでなく他のスポーツにも興味をもっていることだった。当時から巨人の原辰徳さんと面識があり、トレーニングのアドバイスを受けている様子が記されていた。現原監督は当時、巨人の四番・憧れのスターだった。藤本さんはバスケットも大好きで最近でも私の属しているCS放送のJスポーツにもゲストとして出演、NBAを熱く語ってくれている。色々なスポーツに興味をもつことから、自分の競技に役立つことがあるはずだ。
藤本さんがコラムを書いていた頃のスイマガをめくっていたら、非常に興味深々の文章を書いていた。「私はスポーツをアート(芸術)として捉えている。水泳(泳ぐこと)は俳優といった名の「スイマー」が「プール」という舞台でパフォーマンスすることであり、記録やメダルは舞台終了の際に行われるカーテンコールで何回にもわたる「拍手」であると考えている。泳ぐことが速かろうと遅かろうと、水に入り精一杯泳ぐことができれば、それは見る人、応援する人に対して、感動を与える素晴らしいアーティスト(スイマー)になりえるのである。優勝し、金メダルを獲ることだけがスポーツではないのだ。
この頃、藤本選手は大学を卒業していたはずだが、まだ役者の道に進んではいなかったと思う。しかし、ここに藤本さんの未来があったのだろう。泳ぐことを舞台と思う発想、タレントとしてでなく本格的な役者を目指した彼の原点は水泳だったと、今頃になって、改めて知ること出来た。金メダルを獲ることだけがスポーツではないというくだりは、まさに同感、テレビで叫ぶ実況アナウンサーやキャスター、マスコミの記者諸君もよくかみしめて欲しいものだ。
それにしても、久しぶりに男らしい正統派の役者として、立派な活躍をして欲しい。歌舞伎役者のようにいい気なることは藤本隆宏選手には、絶対にありはすまい。 |