スイミングマガジン・「2010年 7月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(7月号)
◎ サマランチ前IOC会長の死

 現代のオリンピック運動に大きな影響を残したスペインのファン・アントニオ・サマランチ会長が四月二十一日、持病の心臓疾患のため死去したことが報じられた。心からの哀悼の意を表したい。夏冬八回、オリンピックアナウンサーとして実況にかかわった私はサマランチ会長時代をオリンピックで過ごさせてもらった。三回の開会式と二回の閉会式の実況で、サマランチさんの名前を間違わずにいえるように、かなり気を使ったことを思い出す。特に珍しい名前でも、言いにくい名前でもないのだが、何故か「サラマンチ」といいそうで、放送が近づくと、「サマーのランチ」「サマーのランチ」と何度も繰り返して、間違えないように覚えようとしていたものだ。

 サマランチ前会長の死去を伝える各新聞のタイトルは比較的、似ており、サマランチさんの功績と批判が相半ばしているように思え、マスコミはしっかり見ていたのだなぁと改めて思ったものだ。「五輪復権の立役者・商業主義に批判の声もあり」「忍耐と粘りの現実主義者」「IOCに君臨・プロ化推進」「商業主義、光も影も」「清濁併せのみ五輪変革」「招致買収疑惑、ひずみもあり」等など。どれも的を得た表現と言っていいだろう。

 日本のJOCの関係者の談話を読むと、必ずしも批判的ではなく、功績を讃え、長野五輪で尽力して貰えたことに感謝する声が多いようだ。その通りなのだろう。複雑な世界の動きの中で、五輪はスポーツの大会とはいえ、スポーツの枠を遥かに超えた、政治、経済、文化、宗教など、世界のあらゆる動きや思想が絡んでくるだけに、オリンピックのリーダーは清濁併せのまなくてはやっていけない時代であると言えるのかもしれない。かってのアマチュア至上主義を唱え、守ったブランデージ会長のやり方では通用しないのかも知れないのだ。

 三十年を超えるサマランチさんの五輪とともに歩んだ強烈な手腕を私は全て否定するものではないが、今のオリンピックは本当に「世界一を目ざす競技者のための祭典」と位置づけるとするなら、言いたいことがある。必ずしも「競技者第一の大会、運営」とはいえないように見えるのだ。

 オリンピックの素晴らしさと価値は四年に一度、この日のために最大のタイトルとしての金メダルがあるべきだ。ところが、プロが参加するとそうではなくなってしまった。テニスのプロの一番の目標はグランドスラムといわれる世界四大大会のチャンピオンになることだ。五輪に復活するゴルフも、またしかりである。しかも、出場は世界ランキングで決められている。アマチュアのテニスプレーヤーの五輪の夢などは幻なのだ。私はバスケットを放送するアナウンサーだが、五輪でNBA選手中心の試合を放送していて、腹立たしいおもいでしゃべっていた。面白くもなんともない。NBAならファイナルやオールスターの方が比較にならないほど真剣勝負やスーパープレイで最高のプレーをしてくれる。彼らは五輪に来ても超豪華ホテルに泊まり、村には入らない。野球アナウンサーの私は野球が外れて、心底「これでいい」と思っている。プロが急きょチームを作って行くのは五輪のあり方に相応しくないではないか。アマチュア野球なら別だ。四年間の思いがある。プロスポーツの選手は五輪の金メダルより巨額の富を求めて働いているのだ。仮に、目的が富でなかったとしても、目標が五輪であるはずがない。テニスもゴルフも選手はメジャー大会を目指している。五輪の年だけ、横からやってきて、「感動のオリンピックです」なんていうのは虫がよすぎるってものじゃあ、ござんせんか。

 プロ化とともに、テレビビジネスも行き過ぎは禁物だ。テレビが巨額の放送権料を払い、五輪をビジネスにしてしまったつけは、選手にかかる。水泳や体操がアメリカのテレビの金の力で、午前中に決勝をやるなんて、許されることではないはずだ。放送権料やスポンサーを管理することで五輪の財政は安定した。そのことで、オリンピックへの思いや目標を失ったアマチュア選手がどれほどいるのか、考えたことはあったのだろうか。

 サマランチ前会長の死去の報に接し、「権力者は哀れで、悲しいなあ」と思いつつ、どうか、競技者のための五輪になって欲しいと願わずにはいられないのだ。一つの時代は終わったといえるのだろうか、ロゲ会長さん。



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