スイミングマガジン・「2010年 3月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(3月号)
◎ バンクーバー五輪をみよう

 一月の中旬、米カリフォルニアロングビーチで短水路大会に出場していた北島康介がロンドンオリンピックへ向けての心境を語ったニュースが伝わってきた。北島の口から初めて、「最終目標になるのではないか」と意欲を示したそうだ。レースでは積極的で勝負強い北島だが、自分の行動に関しては、思慮深い男だと私は見ているから、「なんらかの確信があっての」発言だと思うのだ。マスコミやファンはロンドンイコール三連覇の金メダルと一足飛びに騒ぐだろうが、二年後は二十九歳になる北島だから、出られるだけでも大変なことなのだ。本人が一番よくわかっている。「五輪にもう一度チャレンジする、、、 出られると決まったわけではないのでロンドンを目標にするのだから」そして、私が一番興味深かったのは「バンクーバー五輪が二月にあるし、これを刺激にしてやりたい」というコメントだ。冬の五輪の自然と闘う勝負の厳しさを見ることで、まだまだ学ぶこと、意欲を掻き立てることがあると北島は思っているのだろう。夏の五輪を目指す選手は、一般的には、冬は縁遠い違う世界のオリンピックと思いがちだ。しかし、世界のトップが集まり闘うことでは、夏も冬も変わらない。むしろ、雪や氷、変化する自然現象、いかに道具を自分の身体として扱うかを考えれば、夏の競技より厳しいし、運にも左右されるのだ。

 雪と氷が舞台の冬のオリンピックは選手と自然との戦いになる。雪が降る、降らない、強風が吹く、穏やかな冬空、吹雪、厳しい冷え込み、選手はそれを受け入れで戦うしかない。コースセッティングや製氷の技術が素晴らしく良くなったとはいえ、アクシデントは起きる。氷に小さな傷があり、そこにスケートのブレードが当たり微妙なタイム差が出る。スタートの順番が違う。ショートトラックやノルディック、新しいフリースタイルスキーのスキークロスなどは数人が同時に滑るが、アルペンやスピードスケートは順番があり、全員が同じ条件で競技するわけではない。選手は「そうゆう競技なのだ」と暗黙のうちに運、不運を受け入れて戦うのだ。現代の水泳は自然と闘うという要素が少なくなった。勿論、水という自然は厳然として存在するのだが、室内が多くなり記録も出やすい環境になったことは確かだ。水着問題は決着したが、今の水泳競技はあまりにも環境が整えられて「水と闘う」という感覚が希薄になったように思えてならない。

 冬の競技は雪と氷と厳しい自然と闘い、不平等な条件を受け入れて戦う。自分との戦い、人との戦い、自然との戦いを彼らはどう克服するのかを冬のオリンピックを通じて見つめれば、スイマーの皆さんの自分のレースに参考になることが沢山あるはずだ。スピードスケート、アルペン、フィギュアー、フリースタイル、アイスホッケーは水の中に置き換えれば、競泳、シンクロ、飛び込み、水球といずれも共通するところがあるはずだ。

 オリンピックというプレッシャーの中でメダルを狙ったり、ベストのパフォーマンスをすることは夏でも冬でも変わりはない。テレビオリンピックといわれる現代、テレビの見方一つで自分の役にたてることがちりばめられている。スタジオのタレントが「メダルメダル、頑張ってください」とワンパターンの「お盛り上げと煽り」ではしゃぎまくることだろうが、そんなことはどうでもいいこと、ぜひ、現地からの映像に目をこらして見てほしい。それもこれだけでいい。それは、スケートでもスキーでもスタート前の選手の表情、ジェスチャーに注目してほしい。このスタート前の目や顔、仕草の中にその選手の全てが凝縮されているからだ。スキーの場合はサングラスをしていて、高いところから滑り出すので、カメラはなかなかアップでとらえることが難しい。しかし、スケートはスピードスケートでもフィギュアーでもはっきりと捕えてくれる。自信をもって、平常心で、集中してスタートに向かう選手の目や表情や動きは「強いぞ」「やるなぁ」「いい緊張感だ」と必ず感じさせるものがあるのだ。自分がレースに向かう時の状態を思い出し、比較して見るのもいいだろう。「勝つ選手」は必ずどこかインパクトがあるのだ。私の水泳実況、スピードスケートの実況で一番注目し、拘ったのは、「スタート前の表情、と仕草」だった。プールサイドを歩き、コースの紹介があり、スタート台に上がった時に、実は勝負はついていると、私は確信している。

 バンクーバー五輪の私のテレビの楽しみ方は、世界のトップの「スタート直前の動き」をみて、勝つか負けるかを予測することにある。



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