スイミングマガジン・「2009年10月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(10月号)
◎ ありがとう、そしてさようなら古橋さん

 ベルリンで行われた世界陸上競技選手権で驚異的な世界新記録が誕生した。ジャマイカの旋風からいまや世界のスポーツ界のスーパースターになったボルトの「余裕たっぷり」の世界記録は、普段、陸上競技に関心の薄い人まで、話題にするほどの出来事だった。現地、ベルリンから実況中継したTBSだけでなく、NHKニュースのトップで伝えるほどの報道価値のあるものだったといえるのだろう。100メートルの9.58、200メートルの19.19、驚異的な記録なのに、「まだまだ出るんじゃない」と期待されるほどの快走である。尤も、古い人間の私は、余裕で走るボルトより、指先までピーンと伸ばして精魂こめて走ったロサンゼルスオリンピック四冠王のカール・ルイスの方がお気に入りなのだが、、、

 ボルトの世界記録が衝撃的に世界中に知らされたのに、ローマで行われた世界水泳選手権の世界記録ラッシュについて、マスコミの反応が冷ややかだったのは対照的だ。43個の世界新の誕生は、いくら選手が「泳ぐのは僕だ」と主張しても、「水着が道具になってしまった」と論評されても仕方がないと言わざるを得ない。何度も言うようだが、国際水連は「泳ぐとは」「水着とは」という原点に立ち返らなくては、水泳という競技に世の中の人々が興ざめし続けてしまうだろう。亡くなられた古橋広之進さんの心残りも、この一点ではないかと推察している。

 古橋さんの訃報を聞き、愕然とした。「巨星墜つ」という言葉が閃いた。それでも、世界選手権の開かれていたローマで急逝するとは、まさに、古橋さんの水泳人生だったといえるだろう。古橋さんの公認されなかった世界記録は、なんと33個。国際水連から除名されていた戦後、「ふじやまのトビウオ」は希望の光だった。子供だった私もラジオにかじりついて声援を送ったものだ。「古橋、橋爪、古橋、橋爪」と絶叫するアナウンサーの声は、六十年近く経った今でも耳に残っている。日本人にとって、古橋さんの世界記録はボルトやフェルプスの記録への驚きとは違う「希望に満ちた世界記録」だったのだろう。

 全盛期を過ぎてヘルシンキオリンピックで八位に沈んだ古橋を「日本の皆様、敗れた古橋をどうか責めないでください。」と伝えた飯田次男アナウンサーの名言は、たまたまスポーツアナウンサーになって四十五年の私にとつても「座右の銘」として心に刻みこんでいる。古橋さんが、もし全盛期にオリンピックで金メダルを獲得していたら、古橋さんの生き方は違うものになっていたのではないかと、私はずっと思い続けてきた。古橋さんの素晴らしさは、「ふじやまのトビウオ」として大活躍した現役のスイマー時代以上に、その後のスポーツ人として世界の舞台を泳ぎ切ったことではないでしょうか。私が水泳アナウンサーとしてマイクを握っている時を同じくして、古橋さんは日本水泳連盟の会長を務められた。古橋さんの会長時代に、鈴木大地、岩崎恭子はオリンピックで金メダルをとった。ご自分の泳いだ種目の自由形が世界で戦えることを一番願っていたのも古橋さんだった。競泳だけでは無い。古橋さんはシンクロの委員長を務めた時期もあっと記憶している。オリンピック、世界選手権、から中学大会まで、古橋さんはいつもいつもプールサイドから選手を見続けてこられた。いつでも、どこでも選手の立場から、ものをいい、考えてこられたと思うのだ。正しいことを正しくやることは当たり前のようで難しい。どの大会に行っても親しく声をかけて頂いた。解説をして頂いたこともあった。厳しいさと温かさと正義が同居していた古橋さん、今年の文化勲章のお祝いの会で司会を務めさせて頂き、浜松の日本選手権、古橋広之進記念プールでお話したのが最後になってしまった。

 日本水泳界は古橋さんが書かれる「泳心一路」、選手たちは「魚になるまで泳いだ」といわれた言葉を、必ず受け継いでほしい。

 ありがとうございました古橋さん、そしてさようなら古橋さん。



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