スイミングマガジン・「2009年05月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(05月号)
◎ 水着問題の行く末

 一月のコナミオープンの中継にでかけた際、プールサイドから「今は、自分の泳ぎのスタイルを追求するより、いかに高速の水着にあった泳ぎをするかでしょう」という関係者の声だった。水着の規定がはっきりしていない状況では、どうしてもこうゆう考えになるのはいたしかたないことだろうと頷いていた。勿論、よおーく考えて見れば奇妙な話だ。
 スイマーやコーチ以上に世界を席巻した英国・スピード社の「レーザーレーサー」の出現は日本の用具メーカーには脅威だったはずだ。スポーツの発展には用具やユニフォーム、競技施設の進化は欠かせない。スポーツをより面白く、楽しく、魅力的なものにしてきた最大の功労者といっても過言ではないだろう。ただ、それはどこまで許されるのだろうか。この水着が出現してから、私はずっとこのテーマに関心をもってきた。「人が泳ぐ」という根幹に関わることだといってもおおげさではないだろう。水泳のオフシーズンの冬場に短水路でも長水路でも膨大な数の記録が誕生している。一年前には「レーザーレーサー」はまだなかった。がんばってトレーニングした選手には言いにくいことだが、高速水着のアシストは間違いなくあったといわざるを得ないだろう。
 二月の短水路日本選手権の酒井志穂の世界新と二十六の日本新は世界選手権に向けて素晴らしいスタートで、日本製の水着を着て泳いだ選手の方が多かったと聞けば、日本の用具メーカーのこの間の研究・開発は想像を絶するものがあったはずだ。もうこうなると、戦いはスイマー、コーチたちだけではないのだ。技術革新の戦いといってもいいだろう。
 三月中旬に国際水泳連盟はアラブ首長国連邦のドバイで開いた理事会で新しい基準を正式に決定した。「なんだ、やっと今頃なのか」と思う。すでにオーストラリアなどではジュニアにはふさわしくないので四月からはレーザーレーサーの着用を禁止するという方針を昨年末に出していた。水着を選ぶことにあくせくして、練習の目標があいまいになっていることと、健康管理の問題からだ。ハイテク水着はルールを作らなければ際限なく進化していくはずだ。進化はいいことずくめとはいえない。「何のため泳ぐのか」ということが忘れられてしまうのだ。高価なハイテクの水着を使うか使わないかで記録や勝負が決まるとなれば、フェアーな勝負がおこなわれているとはいいがたいだろう。
 そのオーストラリアから興味深い世界新記録のニュースが伝わってきた。三十一歳のベテランになるバタフライの女子選手が五十メートルで25秒44の世界新記録をマークした。テレース・アルシャマールが自分の記録を02更新したという。「三十一歳までよくがんばっているなあ。やはり水着もアシストとしているんだろうなあ」と私は思いながらこの記事を読んだ。ところが、翌日、オーストラリア水連は記録を取り消すと発表した。それは、アルシャマールが水着を二着着用していたことが判明したからだという。実は国際水連はドバイで開いた理事会でメーカーを集めた会議で水着の厚さは一ミリまで、首と肩や足くびから先を覆ってはいけない、とか、浮力、素材の表面積の制限も規定した。そして水着は一着だけという規則を設けていた。「ここまで予測しなければならないのか」と私は半ばあきれ半ばがっかりした。世界記録をだすためにはなりふり構わず、なんでもやるとなると、もうスポーツに幻滅してしまうではないか。
 この高速水着の問題はまだまだ続きがずっとあるだろう。ぜひ「泳ぐ」という原点を忘れてもらっては困るのだ。日本水連の理事に就任した金メダリストの鈴木大地さんは、就任の際、「タイムのよしあしだけでなく健康にいい水泳にしたい」といっていた。今の世界の流れをよく見ている証拠で、大いに期待したい。何度も同じ話をするようだが、古橋広之進名誉会長の、現役時代の言葉「魚になるまで泳ごう」をもう一度かみしめてみよう。金メダルも世界記録も大事だが、規則違反で泳いで勝っても、拍手は贈れないだろう。「泳ぐ」とはどうゆうことなのか、たとえ高速水着を着て泳がせても、コーチは選手に「泳ぐ」ことの原点を説いて欲しいのです。



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