スイミングマガジン・「2009年01月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(01月号)
◎ スポーツ界初の文化勲章・古橋広之進さん

 日本水泳連盟の名誉会長・古橋広之進さんが八人の文化勲章の受章者のお一人に選ばれた。この一報を聞いた私は嬉しさのあまり思わず受話器を手にして古橋さんにお祝いの電話を入れた。「おめでとうございます。本当によかったですね」「いゃあ、ありがとうございます。思いがけないことでねぇ」「スポーツを文化として評価してもらえたのが私は嬉しかったです。今までいましたかねぇ」「そう、そこなんですよ。私が初めてだそうです。日本のスポーツ界全体にとっても良かったと思っています」
 私は国士館大学体育学部の大学院で「スポーツマスコミ論」の講義を客員のかたちでやっている。その中でスポーツ文化について話をすることが多い。スポーツは科学、芸能、学術、教育に比べて「文化」として捉えられることが不足している。特に欧米と比較してもそうだ。スポーツ選手にその意識が高くないことは確かだろう。スポーツの過去の歴史を大切にすること、一つをとっても然りである。例えば、アメリカの野球の歴史、文化を知ろうと思えば、クーパーズタウンを訪ねればいい。一日がかりでアメリカや世界の野球を知ることができる。
 その歴史を辿ることで野球はアメリカ人にとって大切な文化なのだと知らされる。日本の東京ドームにある野球博物館は三十分もあれば終わりだ。アメリカのどの球場にも歴史を伺わせる記念の品々が展示されている。辰巳の水泳場は泳ぐプールだけのようだ。
 いま現役のスイマーは古橋さんのことを知っているだろうか。それ以上に日本各地で子供たちや選手を指導しているコーチや先生は古橋さんをどの程度知っているのだろうか。現役時代の古橋さんの世界記録は昭和二十一年から二十五年までの四年間に二十六だったと聞いている。公認されたものではない。勿論、色々な種目にわたっており、300メートル自由形、800ヤードリレー、マイル自由形など珍しいものも含まれている。中には、戦後に世界最高とされた記録も含まれている。当時の日本は、戦争責任を問われ国際水連から除名されていた。ロンドンオリンピックにも参加はできなかった。年配の方はご存じのように古橋さんは二十六個の世界記録を出しながら、オリンピックのメダルは一つも持っていない。昭和二十三年のロンドンオリンピックの際、同じスケジュールで大会を行い、古橋さんはロンドンオリンピックの優勝記録を大幅に上回る幻の世界新記録をマークしたのだ。戦後の復興に向かう日本人に希望を与えた古橋の活躍は、時代が違うとはいえ、北島の四つの金メダル以上のものだっただろう。当時はテレビの生中継があるわけではく、雑音だらけのラジオに耳を傾け、日米対抗、日豪対抗で、古橋さんと橋爪四郎さんがアメリカやオーストラリアの選手を打ち負かす活躍に拍手を送ったものだった。勿論、私・島村少年もその一人だった。
 昭和二十七年のヘルシンキオリンピック、病や年齢から全盛期の過ぎた古橋は400自由形で最下位の八位、ラジオ実況をした飯田次男アナウンサーの「敗れた古橋を責めないでください」というコメントは名アナウンスとされている。のちにスポーツアナウンサーになった私の座右の銘ともいえるフレーズである。敗れし者にマイクを向ける時、私はいつでも、この言葉を思い出している。
 古橋さんの真骨頂は選手時代以上にその後の人生であろう。大学での研究者としての学生の指導と学術。何よりも数えきれないスポーツの様々な委員会への出席、それは水泳だけでなくスポーツ界全般にわたるものであった。日本水泳連盟の会長、日本オリンピック委員会の会長、広島アジア大会組織委員長、ユニバーシアード福岡、長野五輪組織委員会副会長、いずれも立派に成し遂げておられる。世界記録を連発していた頃、アメリカのマスコミが名づけた「フジヤマのトビウオ」は現役を引退した後も、世界の水泳やスポーツの現場を泳ぎ続けた。アジア水泳連盟会長、国際水泳連盟副会長として世界水泳界の指導者として尊敬を集めてこられたのだ。
 戦後の食べるものにも事欠く時代「泳げるだけが青春だった」と言われた古橋さん、執筆した新聞のコラムの一節を紹介しておこう「お国のためと強く意識して泳いだつもりはない。記録を更新し、目標を達成できた喜びを追い求めただけである。それは自分との戦いであった」
 いまの若いスイマーの心境に通じるものがあると思いませんか。オリンピックが終わり、次のターゲットをどうするか迷っている選手に古橋さんの生き方の一端を紹介してみました。ここまで書いてきて、一つ思いました。もし、古橋さんが全盛期に五輪に参加し、メダルをザクザク採っていたら、その後の生き方は同じだったのだろうか、と、、、



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