スイミングマガジン・「2008年12月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」(12月号)
◎ 第41回 出処進退をあやまたず

 みちのくの青空は心なしか寂しげに見えた。試合が始まると空は曇り、終盤は時折激しい雨になった。
 「涙雨は僕には似合わないよ」と試合前福岡ソフトバンクホークスの王監督は報道陣に語っていた。十月七日は王監督が十四年間指揮を執ったホークスのユニフォームを脱ぐ日である。甲子園で優勝した早稲田実業の高校時代から背番号Tの世界のホームラン王へ、さらに巨人助監督、監督、そして巨人とセリーグから決別しパリーグの弱小球団だったホークスに転じ、日本一に仕上げ、二年前のWBCでの世界制覇。評論家時代の数年を除けば、約五十年近いユニフォーム姿の王さんを私は見つめ、語ってきた。特にこの一年は九州朝日放送のラジオ中継をやってきたので、球場で王さんに会い、会話を弾ませるのが楽しみで放送していたのかも知れない。それほど、王さんは魅力的で誰にでも等しく、自然体で接してくれる「偉大な人」だった。奢らず、人の悪口を言わず、「世界の王」ぶら下げるようなことはこれっぽっちもない人である。世の中のスポーツ選手、タレント、キャスター、政治家の中には勘違いして横柄になったり、乱暴な言葉遣いをしたり、相手によって態度を変える人がいる。五十年近くも注目を集めながら、王さんは過去の実績をひけらかすことなく、常に前向きで明日に向かっていた。
 人が自分をどう見ようとも、常に自分をわきまえ、奢らず、謙ることなく、人と接する。当たり前のことだが、実は非常に難しいことでもあるといえるだろう。オリンピックを立派に戦った選手たちには、いつまでもメダルを首にぶら下げていたり、オリンピック選手の肩書に寄り掛かるのではなく、次のステップに向かって欲しいと願わずにはいられない。
 王さんは六十八歳で世界の王だから、比べ物にならないという人がいるなら、それは間違いだと私は断言できる。十月のゴルフ日本一を決める日本オープンで十七歳の石川遼は、なんと二位になった。その三日目が終わったあとの石川選手の立ち居振る舞いに感服させられた。
いつものように、三十分以上の長い報道陣のインタビューに丁寧に答えたあと、誰もいなくなった練習場で彼はボールを打ち、練習をした。クラブハウスを出る時は、もう暗くなっていたが、そこには百人をはるかに超すファンがサイン欲しさに長い行列を作っていた。明日の最終日に備えて少しでも休みたいはずなのに、遼君は「ファンの皆さんのために喜んで書きますよ」と全員にサインをしたのだ。中々出来ることではない。ぞんざいに、嫌々、数人だけやって帰ってしまうプロスポーツのスターを私は何人も見てきている。つくづく、人は年齢ではないと思う。
 十月七日、王監督のさよなら試合、私は特別な思いでリポーターをやっていた。王さんがグラウンドに入ってくる。「いよいよですねぇ」と挨拶を交わすと、王さんはいつもの笑顔、こちらは目頭が、すでに熱くなっている。
「最後のユニフォームを着る時も、僕は普通でしたよ。他人のことだと僕は興奮するんだけど、自分のことはあまり気に掛けないんですよ。悲しみの感情に浸ることはないですね」最後まで世界の王は自然体だった。楽天との最終戦、ティームは王さんに勝利を送ることは出来ず、延長十二回サヨナラ負けだった。ベンチ裏でリポーターの私は最後のユニフォーム姿の王監督に声を掛けた。「王さん、長いこと、ありがとうございました」それ以上は泣けそうで言えなかった。立ち止まった王さんは「負けてしまって悪かったね。最後に勝てなかったのは残念でしたが、お互いにお疲れ様だったね」一つ違いの私に、いつも気を使ってくれ、「お互い年だから早い試合がいいね」と軽口をたたき合ったことが思い出され、もう、そんな会話ができないことで寂しさが込み上げてきた。
 王監督が選手たちに語った最後のコメントを皆さんにもお届けしよう「自分に克てる誇り高い選手になって欲しい」王監督の合言葉は「我々は留まってはいられないのです。前進しかないのです」
「出処進退を過たず」という言葉がある。胃がんの手術をして、王さんは体調万全で指揮はとれなかった。王道の身の処し方を垣間見させてもらえた。私もその日がくることを、改めて覚悟させられたのである。
 北京五輪が終わり、レースから引退する選手が多いことでしょう。コーチになる。学生に戻る。タレントになる。サラリーマンになる。ただ、皆さんの引退は王さんの引退とは違いスタートです。メダルや肩書をぶら下げっぱなしにせず、「自分に克てる誇り高い人に」なってほしいものです。



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