スイミングマガジン・「2005年08月号」掲載記事
島村俊治の「アスリートのいる風景」
◎ 第3回 「苦しみの先に栄光がある」

 アテネオリンピックの水泳で金メダルを含む三つのメダルを獲得したフランスの女子スイマー・マナドウの名前を覚えている人は多いでしょう。世界の水泳界で金メダルに縁のなかったフランスにとって、アテネでのマナドゥの大活躍にフランス国民は大喝采を贈ったものでした。先ごろ、フランスのローランギャロスで行われたテニスの全仏オープンで水着姿ではない彼女に会いました。それは、女子の決勝戦の表彰式でのことです。戦いの終わった直後の赤土のコートには、手際よくじゅうたんがしかれ、表彰台が設置されました。大会会長のクリスチャン・ビームさんに紹介され、彼女は女子のチャンピオンに優勝トロフィーのスザンヌ・ランラン杯を贈るプレゼンターとして登場したのです。オリンピックの金メダリストがこの大役を果たしたのは、フランスにとって大きな意味のあることでした。
 フランスの首都・パリはいま、二千十二年のオリンピックの誘致活動の真っ最中だったのです。ライバルはニューヨーク、マドリード、モスクワですが、パリの評判はよさそうです。そういえば、全仏オープンテニスに出場していた、何故か日本で大人気の美少女・マリア・シャラポワはオリンピック誘致運動のロシアの親善大使を務めています。ちなみに、シャラポワの人気は世界各地でかなりのものですが、日本ほどではありません。
 全仏オープンが開かれ、多くのスポーツファンや観光客が訪れていた六月の初め、凱旋門を中心にしたシャンゼリゼ大通でパリオリンピック誘致の一大イベントが開かれました。シャンゼリゼ大通の車の通行を完全にシャットアウトして、大通りを競技場にしてしまったのです。水泳プール、百メートルの直線トラック、バスケットボールのコートなどオリンピック種目の舞台を作り上げ、そこでデモンストレーション競技を行ったのです。その日、私は全仏オープンの中継があり、生でそのデモンストレーションを見ることは出来なかったのですが、テレビで見て驚きました。あの「おお・シャンゼリーゼ」がスポーツ広場には変わってしまったのですから。後日、シャンゼリゼを通ってみると、まだ多くの看板や会場の設置に使われた機材が積み上げられていました。
 ところで、全仏オープンの優勝者にトロフィーを贈る役を務めたマナドゥがフランス人選手に手渡せたら、まさにフランスにとってのハッピーな演出になったのですが、惜しくも台本どうりには行きませんでした。それでも、フランス人が決勝戦に勝ち進んだのは二千年のメアリー・ピアス以来五年ぶりのことでした。いつも、優勝候補に挙げられながらプレッシャーに潰される実力者・アメリー・モレスモー、お尻がはみ出しそうで見ていて冷や冷やさせられる若手のタチアナ・ゴロビンは早々と敗退、決勝に出てきたのは五年前と同じ、メアリー・ピアスでした。ピアスは三十歳になっており、ここ数年は太り気味で精彩がありませんでした。ましてピアスはカナダ・モントリオールの生まれ、生活の拠点はアメリカ・フロリダ、若いころはフランス語がしゃべれず、フランスの選手に溶け込もうとはしませんでした。国別対抗戦のフェドカップのフランス代表に選ばれても、身勝手な振る舞い、会話もない状態でした。だから、五年前にピアスが優勝してもフランス人は親しみを感じず、アメリカ人のような感覚で冷ややかにピアスをみていました。ピアス自身も父親との確執が続いたり、アメリカ大リーガーとの恋が破局したりでテニスもスランプ状態でした。
 そのピアスが大変貌を遂げたのです。練習の拠点の一部はパリに移し、フランスに馴染み、父との関係も和解し、トレーニングの成果を現すような引き締まった体、プレー中にも余裕とプレーを楽しむ笑顔がそこここに見られたのです。しかし、決勝は残念ながら完敗、病気と怪我から再起したベルギーのジュスティーヌ・エナン・アルデンヌに翻弄されました。表彰式のスピーチでフランスのファンに「力が出せず申し訳ない」と泣きながら謝ったピアスにスタンドから暖かい拍手の波が続きました。エナンもピアスも順風満帆の選手生活ではありません。病、怪我、不幸、家庭の不和などそうした苦しみを乗り越えて復活しているのです。苦しみを乗り越えた先に栄光があります。苦しみの数だけ人は強くなれることを全仏テニスの決勝戦で、改めて教えてもらえました。



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