鹿児島に住む友人から年賀状をもらった。
「私の昨年は大変変化のある年で、35年に及ぶ入院生活から地域の中での自立生活を始めました。不安と夢が交錯する中でみんなに励まされ、助けられながら地域での生活に少しづつ溶け込んでいます。自立に向かった目的の一つでも果たせるようがんばって生きたいと思っています。入院中は大変お世話になりました。これからの人生もよろしくお願いいたします」
35年間の長きにわたって筋ジストロフィイと闘い、鹿児島県加治木町の南九州病院に入院していた友人からである。病気が全快しての退院ではない。筋ジスは不治の病といわれていた。年々筋力が衰え、車椅子、電動車いす、寝たきり、さらに、まったく動けなくなるというように、症状が進んでいく絶望的な病である。それでも、今では医学の進歩でその速度を抑えることが可能になってきたとも聞いている。現に24歳で発病、入院した友人岩崎義治さんは35年間も絶望の中で闘い続け、希望を見出し、自立を決意したのである。
考えてみてください。35年の歳月、私でいえば、NHKでアナウンサーとして仕事をしていた年数とほぼ同じ長さになる。その間、彼は病院暮らしをしていたのだ。かれこれ、15年ほど前になろうか。私は講演を頼まれ、スポーツの感動を伝えるテーマで鹿児島の南九州病院に行った。そして、入院している患者さんの「生きる勇気と死線を乗り越えた明るさ」に胸を打たれた。一日一日、生きること、その原点と闘い、生の素晴らしさに感謝する姿に感動した。講演でスポーツの感動を伝えるどころではなかった。
身体を自由に動かすことができないから、彼らは人一倍、スポーツに関心を持っていた。オリンピックや国際大会のことは私より詳しい人もいた。プロ野球の情報も私が教えてもらうほどだった。インターネットの普及は病院にいても情報を得られる。口しか動かせない患者さんがペンを口に画面を次々と出していった。身動きできない患者さんの顔の前にか鏡があり、TVが鏡に映し出されていた。絶望の中でも人は生きる証を求め、知識や楽しみを得ようとしているのだ。ただ、身体が動かないからみんな、スポーツに憧れをもっていた。私のオリンピック放送の水泳実況を目を輝かせ身を乗り出して聞いてくれた。あんな素晴らしい観客の前でしゃべったのは後にも先にもない。
以来、彼らとの交流が続いている。病院の中で彼らは驚くべき才能を発揮している。絵画、短歌、俳句、同人誌の編集、文化イベント、地域との交流、かなり遠方への旅行、野球、サッカーなどスポーツの観戦、できることは何でもやるチャレンジ精神で頑張り、楽しんでいるのだ。
病院からの自立を目指した岩崎さんは加治木町の病院から鹿児島市の中心部にあるマンションに移り、去年の九月から自立生活を始めた。勿論、電動車いすの生活に変わりはないから、ヘルパーさんの介護体制のもとである。食事、車椅子からのベッドやトイレへの移動などヘルパーさんの手助けは必要不可欠である。国と県が始めている支援制度を活用し、彼は病棟からの自立を目指したのである。勿論、仕事もしている。介護の世話になりながらも、同じ境遇の人々に介護を斡旋する。仲間を大切に思う心は同じ病と闘っているだけに、私たちより強いし、助け合う心が働くのだろう。
2月中旬、私はプロ野球のキャンプ取材で鹿児島に向かう。はじめて、病院を出て、自宅で生活する岩崎さんを訪問する約束をした。スポーツの土産話を沢山持っていくつもりだ。
命といえば、インドネシアスマトラ島沖地震の津波で多くの、未曾有うの人命が失われた。アメリカでは記録的な額の義援金が援助団体に寄せられている。スポーツ界も支援の輪を広げている。自動車F1のシューマッハは10億円という巨額の義援金を送ったそうだ。ヤンキースの松井は5千万円、今豪州で私はテニスの放送中だが、人気のシャラポワも100万円を送っている。子供のころ、チェルノブイリの近くで育ち、村を脱出しただけに彼女は「思う心」が強い。義援金は額の大小ではない。アメリカ大リーグにはロベルト・クレメンテ賞という表彰がある。毎年、社会的、人道的な活動を行った選手が表彰されるのだが、クレメンテはかってニカラグアの大地震の救援活動に向かう途中飛行機の墜落事故で命を亡くした大打者だった。その息子は父が果たせなかった支援の再現のセレモニーを行うため義援金と物資を集めたのだが今回の地震と津波の被災地に送ることにしたという。「今、救援を求めている人々を助けるために、セレモニーは延期します」
果かない命だが、その命と真正面から向き合って闘っている人、支援しようとしている人がいる。練習がうまくいかない、記録が伸びない、代表になれない、とスイマーの皆さんは不満やもどかしさがあるかもしれない。しかし、「楽しく、泳げるだけで幸せ」と感じる心を持って欲しい。指導者の価値もここにあるように思えるのだが。 |