スイミングマガジン・「2005年01月号」掲載記事
Sportus Field Column −島村俊治の勝負を語る!−
◎八十周年によせて

 今年は日本水泳連盟にとって80年の歴史を刻んだ記念すべき年にあたる。その年にアテネ五輪で競泳、シンクロを会わせて10個のメダルを獲得できた。水泳日本の復活、第三期黄金時代の幕開けが始まったといってもいいのかもしれない。
 日本水泳連盟の創立80周年を祝う記念式典と祝賀会が11月20日に品川プリンスホテルで盛大に行われた。日本水泳連盟の発足は大正13年10月31日である。祝賀会で挨拶された日本体育協会の安西孝之会長の話では体育協会の発足より水泳連盟のスタートの方が一年先輩にあたり、当時7つの競技団体で発足した中で、水泳連盟がイニシアチブを取り、リーダー的存在であったと紹介されていた。
 主催者代表の挨拶をした林利博会長は80年の歴史を踏まえ、次のような主旨の挨拶をされた。
「水泳連盟はオリンピック第一主義を置いてきました。戦前のアムステルダム、ロサンゼルス、ベルリンで水泳ニッポンの黄金時代を築き、戦後は敗戦の中から国民に生きる希望と勇気を与えてきました。日本はロンドン五輪に参加できず、対抗競技を開き、古橋廣之進選手、橋爪四郎選手らが世界記録を連発するなど、ここが第二期の黄金時代であったといえるでしょう。」
 若いスイマー、現役の選手諸君には、是非歴史をひもといて知ってもらいたいのです。古橋廣之進さんの全盛期は泳ぐたびに世界記録をマークし、敗戦の苦しみと虚脱状態の日本人に明るい希望を与えてくれました。「腹をすかしていても、泳げるだけが青春だった」という「フジヤマのトビウオ」の古橋さん。古橋さんがどんなに強くても、日本は戦争の責任をとらされて国際社会から締め出され、オリンピックに参加することは出来なかったのです。
 古橋さんがオリンピックに登場したのは、ヘルシンキ五輪でした。400m自由形で辛うじて決勝に進みましたが、全盛期の力はなく、最下位に終わりました。「敗れた古橋を責めないで下さい」とラジオ実況をした飯田次男アナウンサーの名言が、今も語り草として残されています。私もオリンピックの実況のたびに、心して自分に言い聞かせたフレーズです。

 恵まれた時代、豊かな環境で練習できる今の日本の水泳界には程遠いことですが、こうした過去があったことを知っておいてほしいのです。戦乱の世では、スポーツは肩身の狭い思いをせざるを得ないのです。「過去があるから、今がある。今があるから未来がある」のです。先人の偉業と苦しみを大切にすることが、80周年を祝う心のよりどころと私は思うのです。
 林会長は、こう続けました。「東京五輪の惨敗以後、ミュンヘン、ソウル、バルセロナと金メダルは取れましたが、復活したのはアテネです。そして、強い日本の第三期黄金時代を築く正念場はこれからです」
 また、80周年記念行事の実行委員長を務めた小林徳太郎監事は、祝賀会開会のあいさつで、日本の水泳界の現状を分析して話をしました。若い人たちにぜひ聞いてほしかったので、まとめてみました。
 「今、水泳の練習は科学的トレーニングが普及し、情報も世界共通の時代になっている。アテネの成功を見るまでもなく、資金、環境も整備されてきた。国際大会に参加するだけでなく、国際交流も活発で、日本は世界の水泳からも貢献することを期待されている。メディアを通じての新しい市場開拓も進んでいる。競技スポーツだけでなく、市民スポーツ、生涯スポーツへの広がりも浸透してきている。みらいを開く鍵はここにあるし、新しい人材の育成にも力を注ぎたい」
 このような主旨の話だった。的確な現状分析と、将来への指針であると同感した。
 ただ、一つだけ言わせてもらいたいことがあった。この祝賀会の司会を木原光知子さんと私で担当させてもらったのだが、あいさつを聞かずにガヤガヤと騒々しい参加者がいたのに私はがっかりしたし、憤りをおぼえた。
 司会者にあるまじきと言われようと私は言ってしまった。「静粛にお願いします。私は口の悪いアナウンサーですから、言い続けますよ」。
 もう一つ、祝いの会には、開催する側の祝いの精神がほしい。楽しんでもらうには、どんな演出がいいのか。そこに(もてなしの心)がある。水泳界以外の、違う新しい血も必要ではなかろうか。



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