スイミングマガジン・「2004年08月号」掲載記事
Sportus Field Column −島村俊治の勝負を語る!−
◎金メダルだけではない
 アテネ五輪の聖火ランナーの一人に選ばれた岩崎恭子さんの笑顔に、久しぶりにお目にかかった。『きれいになったなぁ』というのが偽らざる感想である。
 それにつけても、あの日はいったいなんだったんだろうと今でも思うのだ。
 1992年7月27日、女子200m平泳ぎ予選が行われたバルセロナ五輪、モンジュイックのオリンピックプール。14歳になったばかりの岩崎は、世界記録保持者のアニタ・ノールと予選5組でともに泳ぎ、わずか0秒01僅差まで追い詰めたのだ。
 2分27秒78。9年間続いてきた長崎宏子の日本記録2分29秒91も大幅に更新してしまった。長いこと実況をしてきた私だが、これほど驚愕したことはない。
 このレースの実況は、まるで決勝のようだった。今でも彼女の金メダルのシーンでよくVTRが流れるが、私にとってはこの予選の方が思い出深いのだ。
「岩崎、追っている、逆転か!タッチはどっちが早いか!タッチはぁ!」。「2番目で日本新記録! あわやでしたねぇ」。興奮し、動転していたのか、あわや何だったのかを言えなかった。
 何しろ日本代表時点での岩崎は、日本の第一人者ではなかった。ナンバーワンは粕谷恭子。その粕谷は予選3組で2分32秒55.決勝進出を逃している。岩崎に神風が吹いたとしかいいようがなかったのだ。
 午前中の予選が終わり、私は会場の正面で彼女のコーチの水野隆一郎さんに初めてお会いしたほどだ。水野さんはオリンピックのコーチングスタッフに入っていなかったので、バルセロナに着いたばかり。プールに駆けつけたのだが、予選のレースには間に合わなかったのだ。ここでも解説の高橋繁浩さんらを交え、驚きの会話の連発だった。
 決勝前の報道陣控え室で、私がアメリカのコメンテーターからあれこれ取材を受けたのはいうまでもあるまい。岩崎のデータなど、彼らは全く持っていなかった。
「富士山の見える沼津の出身」から紹介してあげたものだ。日本の報道陣も驚いたが、米国のプレスにとってはもっとショッキングだったかもしれない。世界記録保持者のノールが、ガチガチ二重丸の金メダルとふんでいたはずだ。
 恭子さんの「今まで生きてきた中で一番幸せ」な日の金メダルについては、あらためて語ることもないだろう。
 オリンピックでは勢いで勝つこともあるのだ。理屈では証(あかし)切れない幸運が重なり、神風が吹くこともあるのだ。
 プロスポーツの世界で、メジャーの怖さや価値に押しつぶされてタイトルを取れずに終わってしまった実力者を、私は何人も知っている。ここで私が言いたいのは、彼女の真価は、決勝に残れなかった次のアトランタ五輪にあるということだ。
 バルセロナから帰ると、マスコミのフィーバーもあり、小さな大スターになってしまった。これは金メダリストの宿命だ。水泳人生はこれから先が長いのにもかかわらず、初めに頂点に立ってしまった。
 これはある意味では悲劇でもある。あの日、彼女は実力で金メダルを勝ち取ったのだが、それは突発的なものだった。その後、注目を集める中、勝って当たり前と見られる中で戦っていくのは大変なことだったと想像される。
 そして彼女は再びバルセロナ五輪前のように、ナンバー2の存在になり、田中雅美がナンバーワンの座に就いた。それでもあきらめることなく、オリンピックの価値を真に知り、アトランタに挑んだのだ。
 今度はまさに挑戦だったといえるだろう。だが、決勝には進めなかった。金メダリストが、決勝の前に泳ぐ順位決定戦への出場に回った。
 私は、それだけでも十分だと満足して彼女の泳ぎを見つめていた。バルセロナでは実況したが、アトランタのこの種目はインタビュアーだった。
 通算10位でプールから上がってきた彼女を、インタビュー通路で迎えた。
 「頑張ったねぇ。よくやったよぉ」。
 「本当ですかぁ。ありがとうございます」と言うと、大きな黒い瞳から涙がどっとあふれてきた。
 バルセロナの金以上に、彼女の心に残った価値観はアトランタの方が上だろう。今の彼女の生き方の軌跡は素晴らしい。金メダリストになっていつまでもマスコミの寵児でいたがるタレントを見るにつけ、そう思うのだ。


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