スイミングマガジン・「2003年11月1日号」掲載記事
島村俊治の会えてよかった(25) ゲストは「高橋 繁浩」さんです
はじめに
 愛知県豊田市にある中京大学のキャンパスを訪問した。以前にも同大学には、鶴峯治さんのインタビューでおじゃましたことがあるが、そのときにはなかったスタンド付の屋外プールが、室内プールの横に完成していた。素晴らしいのは、水中の泳ぎを見られる設備まで整っていること。このプールで水泳部の指導にあたっているのは、高橋繁浩監督。今では先生と監督業がすっかり板についてきた“シゲ”だが、相変わらず若々しく、カッコいい。私が一番好きだったスイマーの一人である。
競泳専用の素晴らしいプールを造っていただいたので、
恩返しをしなければと思います。
島村 久しぶりにお会いした印象ですが・・・・あまり変わらないですね(笑)まだ本当に若々しい。
高橋 そうでもないですよ(笑)ほとんど毎日、学生達と接しているので、気持ちだけは若いかもしれませんが。
島村 それにしても、立派なプールが出来たのですね。屋外の50mでスタンド付きですし、大会も開催できそうですね。
高橋 新しいプールは今年の7月7日に完成しました。地下には水中窓もありまして、そこから泳法をよりしっかりと分析することも出来るんです。今年はここでインカレに向けて集中的に練習できました。
島村 まだ、ご自分でも泳がれるのでしょう?
高橋 そうですね、泳ぎますよ。
島村 生徒にも、まだまだ負けないぞと(笑)。
高橋 負けますよ(笑)。正直言ってもうかなわないですね。200mなんて、泳ぎきるのが精一杯。数年前、合宿の終わりに学生と競争したときで、2分30秒くらいかかりましたから。
島村 世界の平泳ぎのタイムも、このところかなり上がってきましたよね。
高橋 われわれの現役時代は、200mで2分10秒台。それが今は、北島康介選手が世界記録をつくるなどレベルがかなり上がって、特に世界のトップクラスは1桁秒台に入りましたから。
島村 中京大水泳部といえば、やはり平泳ぎというイメージがあるのですが、どうですか。最近の部員の実力は?
高橋 おかげさまで、少しずつ上がってきましたね。現在は、僕の昔の記録ではレギュラーになれないくらいです(笑)。
島村 高橋さんの高校時代のタイムですが、確かサンタクララの大会で2分17秒81でしたよね。出、その後ずっとそのタイムを破れなくて・・・・ソウル五輪の予選でしたか?久々に記録を更新したのは。
高橋 そうです。時間がかかりましたね。その間、一番悪いときで2分30秒くらい。まるで他人が泳いでいるかのように遅かった時期があるんです(笑)
島村 ロス五輪の後、一度引退しましたね。中京大水泳部の指導を始めたのは、そのころですか?
高橋 いいえ、ロス五輪が終わって2年半くらいは鶴峯治先生から極端な話、「プールに来るな」といわれていましたから(笑)。当時、大学院に通っていた勉強もそれまでやってなくて大変だろうから、プールから離れろと・・・
島村 えっ、プールには全然来なかったんですか?
高橋 来なかったですね、ほんとうに。誰が活躍しているとか、ある程度の情報は入ってきましたけど、水泳界から離れていたんです。で、大学院を終了して実技実習助手という形で採用されましたので、水泳の授業を担当するかたわら、水泳部の指導を手伝いました。
島村 そうすると、中京大の指導を本格的に始めたのは・・・・
高橋 ソウル後に引退し、その後、米国に2年間留学して、帰国後ですね。1990年の10月くらいからです。監督としては、92年から指導にあたっています。
島村 ということは、キャリアはもう10年以上。毎年、着実にいいチームづくりをされて、今年は素晴らしいプールもできて、これからますます楽しみですね
高橋 競泳専用のプールをつくっていただけたので、その恩返しをしていかなければと思います。
●二十代は身体を動かして三十代は頭を使って
・・・・・四十代は心で指導しなさいと。
島村 名選手が名指導者になって来た。高橋さんは、その代表だと思いますが。
高橋 いいえ・・・。もちろん、選手としてそこそこの活躍をしたいということで多少のプレッシャーはありますけど、名指導にならなければいけないという気持ちは強くないんです。指導者としては、たいしたことないなと言われても(笑)
島村 でも、高橋さんの指導法や、人柄に魅かれて入部してくる学生も多いでしょう?
高橋 中京大で水泳をやりたいと言って来てくれる学生にまず感謝しますし、快く送り出してくれる先生方にも感謝します。大学の水泳部は、各都道府県の選りすぐりの選手達によってなりたっているわけですから。私には、ここに来てくれた好素材をしっかりと磨いていくという役目があるんです。
島村 現在に至るまで、高橋さんにとっては、やはり鶴峯先生の影響は大きいですよね。
高橋 高校、大学と、伸び盛りのときから鶴峯先生に一貫指導を受けてきましたから。本当に沢山のことを教えていただき、吸収させていただきました。今もそうです。
島村 ご自身が選手として鶴峯先生の指導を受けていた時代と、ご自身が指導者として教えている今とを比較して、学生の気質や水泳への気持ち、取り組み方など、何か違う点はありますか?
高橋 藤記録を上げたいとか、表彰台に上がりたいと言った、選手達の純粋な気持ちは変わらないと思います。変わったのは指導者の選手達への接し方じゃないですかね。まず、怒ることが少なくなった(笑)、決して怖い存在ではないんです。
島村 鶴峯先生は、恐かったんですか(笑)。
高橋 もちろん、ただ恐いだけではないですよ(笑)。アメとムチの使い分けがうまかったというか、しかるときは激しく、褒めるときは優しく、ですね。いい記録を出して、ニコッと笑って迎えてくれたときの柔らかい表情・・・・選手時代のぼくにとってはうれしかったですね。
島村 最近は、指導者が怒らなくなってきた?高橋さんもそういうタイプですか?
高橋 1怒らなくなってきたのかなぁと思いますね。もっとも、選手たちとは皆、真面目に一生懸命、水泳に取り組んでいますから、怒る必要もないんですけど・・・・だけど、指導者になったばかりのころは、怒れない自分がいやだった(笑)。だから、当時の選手たちには悪いことをしたなと思うんですが、無理に怒っていたこともあります(笑)
島村 指導法や選手との接し方について、鶴峯先生から具体的に教えられてことは何ですか。
高橋 二十代は身体を動かして、三十代は頭を使って指導しなさいと。そして四十代は心で、五十代になったら目で指導しなさいということですね。
島村 六十代になったら?
高橋 耳を使って、人の話をよく聞くようにしなさいと。自分中心ではなく、いろいろな声に耳を傾けることが大事だと教えられましたね。
島村  ところで今年のインカレは男子3位、女子6位でしたね。レベルの高い戦いの中で、コンスタントに上位入賞するまでになったわけですが、ここまでを振り返ってみていかがですか。
高橋 最初は、選手達の意識を高めることに苦労しました。自分自身がジュニア時代から、意識の高い環境の中でやってきましたから。正直、指導するようになった当初の中京大は、意識がやや下がっていたんですね。日本選手権に出場できて大喜び、という感じでしたから。
●安定性とは、いつでも確実に自分の思ったとおりに泳げるということです
島村 どの競技においても、やはり意識とか、動機付けという要素は大切ですよね。日本の水泳界全体としても、特にシドニー五輪あたりからかなり上がってきたのではないですか。
高橋 そうですね。選手の意識レベルというのは、とても大きな要素です。例えば、今年のバルセロナ世界選手権を通しても、確実にレベルアップしていると思う。でも、メダルを取るためには、さらに厳しい姿勢でレベルアップしていかなければなりません。国際大会で決勝に残りたいと思っていたら、準決勝10位で終わってしまう。なんとしてもメダルを取るぞという意気込みで臨んだ選手でも決勝では4位以下に終わり、金メダルを目指した選手でも銀や銅で終わる。世界記録を出すと決めて臨んだ選手が金メダルを手にするのではないでしょうか。今回の北島選手もそうだったと思いますが、それくらいの強い気持ちでないと大きな目標は叶えられないのでは、と思います。
島村 なるほど。その他に、大舞台で大きな結果を残すために必要なことって何でしょうか。
高橋 安定性だと思います。安定性とは、いつでも確実に、自分の思ったとおりに泳げるということ。それは、たとえ調子が良くなくても、その原因を冷静に分析できるレベルでないとできません。冷静な分析できて、安定性につながる。その点を考えても、やはり北島選手は優れていますし、冷静に的確にアドバイスする平井コーチもすごいなぁと思います。
島村 何も考えずに、一発勝負的に臨んでもダメなんですね。日頃の鍛錬を通じて、そういう力を養っておかなければ、いざ本番というときに力を発揮できないですから。それにしても高橋さん、選手、指導者としてたくさんの経験を積んで、充実した水泳人生を歩んでいますね。選手時代は、泳法違反の試練もあって悲運のヒーローという印象もあったのですが・・・・・。
高橋 確かに水没対策とかいろいろありましたね。何をやっても、うまくいかないときもあった(笑)。でも、エドモントンのユニバシアード(1983年)の100mで勝ったこととか、たくさんのいい思い出がありますし、復帰後の特に1年くらいは、それまでになかった新鮮なチャレンジャー精神も体感できた。水泳と関わってきて本当に良かったなぁと思います。
島村 どうですか。仮に現役時代に戻れるとしたら・・・・。
高橋 もう一度、あの時に帰りたいと思う部分もありますね(笑)。ベルリン世界選手権(1978年)の200mで決勝を泳がせてもらったら、生き返ったかなと思ったり(笑)。
終わりに
 話の中に、恩師・鶴峯さんがたびたび登場する。鶴峯さんにいつまでも尊敬の念を持ち続けるところに、高橋さんの人柄がうかがえる。そんな彼を見ると、「素晴らしくいい人だから、世界では勝てなかったのかも・・・・」という思いもある。「もう一度、あのときに帰りたい」という言葉を、私は深く理解しているつもりだ。体調を崩された鶴峯さんも、快方に向かっているそうだ。私の放送資料『高橋繁浩の全記録』を見せたら、「コピーさせてください」と言われた。ルーズリーフの表裏3枚に、びっしりと彼の足跡がある。


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