スイミングマガジン・「2003年5月1日号」掲載記事
島村俊治の会えてよかった(23) ゲストは「石井 宏」さんです
はじめに
 東京の真ん中、JR市ヶ谷駅に近い日本大学の本部を訪ねる。1960年ローマ五輪男子800mフリーリレーの銀メダルメンバーだった石井宏さんは日大を卒業後、共同通信社に入社。水泳やボクシングの専門記者になり、文筆でも活躍した。また1970年代から80年代にかけては、記者の傍ら水泳中継の解説者としてもソフトな語り口でマイクに向かった。
 私にとっても、石井さんと放送したベルリンからの第3回世界選手権は、忘れられない思い出のレースである。あれから25年・・・春まで間もない一日、久しぶりに石井さんと談笑のひと時を過ごせて、心温かくなった。
グローバル化、情報化された世界の中で、
いかに時代に対応した人材を輩出していくか
島村 お久しぶりです。日大の広報部長として、もう長いんですね。
石井 平成6年5月まで共同通信に勤めていまして、その後すぐここに来ましたから、もう9年になります。
島村 広報部長になられたと聞いた時、ご自身にぴったりのお仕事に就かれたなと思いましたよ。大学という組織の中で多方面と関わっていくわけですから、大変でしょうけど、やりがいも大きいでしょう。
石井 日大は、いわゆる総合大学ですからね。学部が14あって、通信教育部もある。それから大学院が18研究科、病院が5つ、付属高校が23・・・・歯学などの専門学校や看護学校もありますから、本当に大規模です。
島村 たくさんの人たちと連携していくことにおいては、共同通信時代の経験も生かせるのではないですか?
石井 そうですね。マスコミの世界とは違いますが、人とのコミュニケーションという意味では、多少は経験が生かせているのかなと。大学の場合はシステムがしっかりしているから、やりやすい部分も多いですし、何よりも自分の母校ということで、仕事の苦労はあまりないですね(笑)
島村 日大が目指しているのはどんなことでしょうか。
石井 グローバル化、情報化された世界の中で、いかに時代に対応した人材を輩出していくか。データ管理なども含めて、時代に合ったコンテンツを積極的に展開しています。
島村 全体的に大学の気質も、時代とともに変わってきましたよね。
石井 確かに。結構開放的になってきたんじゃないかな。今、日大では財務の状況までインターネットで公開しています。21世紀にふさわしく、何でもオープンにしましょうと・・・・(笑)
本当に驚きましたしラッキーだったと思う。
決勝という土壇場ですごい力が出たんだなと・・・・・
島村 それでは水泳の話に移りますが、石井さんが出場されたローマ五輪は昭和35年・・・。
石井 今の若いスイマーには、ピンと来ないかも知れませんね(笑)
島村 ただ、その頃は私、まだアナウンサーになってなかったですから、石井さんの泳ぎは当時の新聞やテレビの映像で振り返る事が多かった。でも、やはり石井さんといえば、ローマ五輪の銀メダルということにになるでしょうね。
石井 あの800mフリーリレーですね。福井誠さん、山中毅さん、藤本達夫さんがメンバーだったんですが、私以外の三人はすごく速かったし、泳ぎも華麗でした。
島村 そのレースで、石井さんのタイムはどのくらいだったのですか。
石井 当時はだいたい2分8秒くらいだったのですが、オリンピック本番では2分4秒が出たんですよ(笑)
島村 ほう〜、それはすごい。4秒近く縮めるのは大変なことですよ。しかもオリンピックで・・・・
石井 本当に驚きましたし、ラッキーだったと思います。決勝というまさに土壇場で、ものすごい力が出たんだなと。でも裏を返せば、それまで一生懸命やってなかったと・・(笑)
島村 いえいえ(笑)。だけど、それだけ縮めたのは、長い歴史の中でも石井さんと岩崎恭子さんくらいですよ。レース展開も覚えていますか?
石井 現在は豪州代表チームの団長として何度も来日しているジョン・デビットさん。彼は100m自由形で金メダルを取り、800mのリレーでは第2泳者として一緒に泳いだんです。第1泳者の福井さんから引き継いでスタートしたとき、私は米国に次いで2番手だったんですが、デビット選手よりも身体一つリードしていた。だけど50mですぐ並ばれて(笑)彼は短距離の名選手、私は1500mが本職ですから当然です。で、100mで、もう体三つ分くらい先に行かれていました。私は1分くらいで折り返したのですが、彼は56秒ぐらいでターンしたのでしょう。
島村 その差は、どのように縮めていったのですか?
石井 125mあたりを過ぎても、あまり変わらなかった。だけど私にも意地がありまして(笑)、ここから懸命に泳げば何とかなるだろうと気合を入れましたら、150mをターンしたあたりからデビット選手の足先がだんだん近付いてきたんです。そして、グッと接近したのは180m付近ですね。長距離選手の自分は後半が強い、と信じて泳いだのもよかったのでしょう。
190mでついに並びまして、後は息継ぎなしで必死に泳いだ。目の前が真っ白になるくらいに(笑)
島村 いや〜、すごい!そうして、デビット選手を抜いて3泳に引き継いだ。その差が、そのまま日本の銀メダルにつながったわけですね。
石井 最終的には、豪州との差は1秒弱で、本当に僅差でした。ちなみに、優勝した米国とは3秒くらい差があったでしょうか。
島村 ローマ五輪は、日本チーム全体としても好成績だったんですね。
石井 はい。山中さんが400m自由形で銀、大崎剛彦さんが200m平泳ぎで銀、田中聡子さんが100m背泳ぎで銅、そして男子400mメドレーリレーでは、富田一雄さん、大崎さん、開田幸一さん、清水啓吾さんが銅メダルを獲得しました。金メダルはなかったですけど、日本選手はほとんどが入賞しましたし、いい大会だったと思います。今振り返っても、すごく充実していましたね。
島村 代表チームの中で、特に印象に残った選手は誰ですか?
石井 それぞれに光る才能を持ったメンバーでしたが、やはり山中さんですね。大会直前の練習で、世界記録で泳ぐんですから(笑)
島村 山中さんはメルボルン五輪(昭和31年)でも、400m、1500mで銀メダルを取りました。やはり、その頃の水泳界の中心的存在だった。
石井 山中さんから刺激を受けることは、確かに多かったですね。
縁あって入社した共同通信社時代。
本当にやりがいのある仕事でした。
島村 解説者とアナウンサーという関係で、石井さんとお付き合いさせていただくようになってから、色々な大会でお世話になってきましたが、その中で一番印象深いのはベルリンの世界選手権です。
石井 1978年ですね。私もそうです。あの大会は面白かった。でも、そのほかの大会についても、多くのことを覚えていますよ。取材して、放送して、私自身も勉強になる事が多かったですね。
島村 勉強といえば、今の若い選手たちには、石井さんのローマ五輪のときの強さ・・・・ここ一番で力を出すことをぜひ学んでほしいですね。
石井 いえいえ(笑)、特に教えることなんてないですから。
島村 でも、秘けつというか、心がけていたことはあるでしょう?
石井 まあ、自分で言うのもなんですが、練習はよくやっていたと思います。だけど、精神的に強かったといえばそうでもない。大会前日は部屋の時計の音が気になって眠れない、なんてこともありましたしね。だけど実際レースになって、笛の合図でスタート台に乗ったら、なるようになれ、どうでもいいやって(笑)。だけど、そうなれたというのは、冷静だったのかなと。
島村 銅でもいいやって思うのも、決して投げやりな気持ちではなく。
石井 いい意味での開き直りですね。だから、スタート台の上では、いつも清々しい気持ちでしたよ。
島村 話は戻りますが、石井さんが水泳を始めたとき、あこがれた選手は誰なのですか?
石井 それは、やはり古橋廣之進さんですよ。皆さんもご存知のとおり、すごい活躍でしたから。当時は、古橋さんの泳ぎをラジオで聞いていたのですが、アナウンサーの「世界新記録」「優勝!」という声に心踊らされました。
島村 共同通信では、運動部の記者として長く活躍されましたね。入社されたきっかけは?
石井 日大の恩師の村上監督に「水泳部の新入生を勧誘して、後輩の面倒を見ろ」と言われて、少しやらせていただいたのですが、ある会社に入った後、たまたま水泳会場に行ったときに共同通信の記者の方に会いまして、「今、水泳記者を探している。やってみないか「と。そういう縁で入社して、記者として20年くらい過ごしました。
島村 水泳だけでなく、ボクシングも取材されたようですね。
石井 その二つが中心でしたね。でも、記者生活は良かったですよ。充実していた。特に若いころは(笑)。
島村 選手時代とはまた違った感動がありますよね。
石井 まさにそれなんですよね。決して自己満足ではなく、あんなにやりがいのある仕事はない。歴史的瞬間に立ち会うこともできるし。水泳だけに限らないですが、スポーツ選手から記者に転身する人がもっといてもいいなと思います。
島村 記者生活の後は、日大水泳部監督に就任されて、多くの成果を挙げられましたね。
石井 20年間勤めさせていただいて、選手にも恵まれてインカレでは12回優勝できました。これもまたいい思い出ですよ。現在は水泳部の部長です。もう5年になりますね。母校の監督になって、部長も努めて、本当に恵まれた道を歩ませていただいていると思います。
島村 今後、学生スポーツの世界に望むことは何でしょうか。
石井 日大の総長も言われたことですが、やはり文武両道が一番です。バランスのいいスポーツマンであり、バランスのいい学生であること。これが基本でしょうね。
終わりに
 インタビューの合間にも、ひっきりなしに電話のベルが鳴る。日大広報部部長としての要職の忙しさがうかがえた。水泳部監督としても数々の成果を収めた石井さん。
 選手として指導者として、またマスコミの側からも水泳界に長年貢献し続けてきたことになる。マスコミで働く者は、広い視野と好奇心が必要だ。専門記者として「幸せだった」と繰り返し口にしたことを、私もわが身のように感じられた。スイマー諸君の中からマスコミを志す人がもっと出てきてほしい、と願わずにはいられない。


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