島村俊治の会えてよかった(22) ゲストは「清原伸彦」さんです |
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はじめに |
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東京都世田谷深沢にある日本体育大学のキャンパス。水泳の清原伸彦総監督を訪ねる。授業が終わるのを待つ間、校舎の入り口にうず高く積まれた『日体大スポーツ』という大学新聞に目を通した。
アマチュア相撲、スピードスケート、ハンドボール。バスケットボールなど、体育系の大学らしく数々の成果が出そろう中、「男子水泳5年連続26回目のV」という大きな活字が、「有終の美」というタイトルで紹介されていた。清原さんとは20年以上前、私が初めて水泳の実況するときに‘手ほどき’を受けて以来の付き合いになる。 |
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●ひらめきは即実行!
空手、相撲、バスケットなどを取り入れた工夫あるトレーニング
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島村 |
清原さんは覚えていらっしゃるかわかりませんが、私は1981年、千葉のインターハイを放送することになったとき、清原さんに水泳の基本を教えていただいたことをものすごく覚えているんです。印象的なのが、翌年のインド・ニューデリーで開催されたアジア大会。清原監督率いる水泳日本代表チームが1点差で強豪・中国に敗れたことです。
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清原 |
勝てた試合ですけどね。 |
島村 |
あの時代は、清原さんが大学、全日本の指導をなさって大体10年ぐらい経ったころ。次のロサンゼルス五輪を目指し、若さと情熱にあふれていたころだったのではとおもうのですが。
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清原 |
指導者って色々なタイプがあって、僕は情熱を前面に出すタイプ。あのころは、ひらめきと、「これが大事だ」と思ったことはすぐに取り入れました。当時の選手達はつよかったですしね。 |
島村 |
教え子の福元寿夫さんに聞いたんですけど、最後の一本が決まらないと出来るまでずっと練習が続いて、気がついたら午前1時だったとか。清原さんの指導には‘スパルタ’というキャッチフレーズが付けられやすい(笑)。しかし、その中にはいろいろと工夫した練習があると思うんですよね。 |
清原 |
‘スパルタ=間違った指導’と受け取る人が多いと思うんです。そうではなく、スパルタっていうのは選手の持っている力を引き出してやるための一つの方法。自分では越えられない壁を、指導者が抱え、越えさせてやらなければいけないんですね。 |
島村 |
長い距離を泳ぐ、スピードを養うトレーニングはもちろんなのですが、あのころの話で印象深いのが水中以外でのトレーニングのこと。高所トレーニング、空手、相撲、バスケット、ウエートトレーニングもやったというお話を鮮明に覚えています。 |
清原 |
水球の動きを細分化して発想します。で、その動きを身につけるためのより早い手段が相撲だったり、空手だったりということだったのです。今は練習場所が健志台キャンパスに移ってしまったので、なかなか簡単にできないのですが、空手を取り入れたのは大正解でしたね。 |
島村 |
空手には、どのようなエピソードがあったのですか? |
清原 |
今、どのスポーツでもどんな指導者でも‘あがり’の問題で非常に悩んでいると思います。練習ではあがることなく徐々に調子を上げていけるのに、試合では力を出せない事が少なくない。僕はその対処法として空手を選んだのです。実は、ウチの学生で高校時代は陸上選手、大学に入ってから空手を始めたという学生がいたんです。か細い身体だったのです
が、4年生になって試合で見る彼は目つきや歩き方、態度が堂々としていた。見ている方があの迫力に負けてしまいました。精神力が強化されたんでしょうね。それで胴着を買って、空手部に教えてもらった。これを毎日積み重ねていくと、おのずと精神力が身につくんですね。 |
島村 |
武道は心のあり方を追求している。だから一流になった選手が、そこから先のステップのためにぶどうを取り入れる。世界のゴルファーの中でも武道の心得を学んでくる選手が結構いるんですよ。日本人ではなく、他の国の人がやっている。むしろ日本人はそういうことを忘れているんですよね。 |
清原 |
相撲の世界で‘心技体’っていいますよね。まさしく心の部分を鍛えている。体格などに関しては外国人にかないませんが、集中力だとか心の部分では、むしろ日本人の方が進んでいると思うんです。僕が考えるトレーニングの中には、そういう部分が多いですよ。無意識のうちにね。それと、昔は一つの練習をするのに4〜5時間かけたら耐えられない。だからそれをコンパクトに凝縮してやっています。今一番気を配るのは、現代風の若者にいかに対応していくかなんですね。相手ではない。まず、自分のところの選手達の心をいかにつかむかなんです。 |
●真剣なぶつかり合いは面白い。
選手の努力と勝負の内容の濃さは比例する。 |
島村 |
清原さんは監督として、およそ300勝以上の連勝を重ねてこられました。国内で勝つのは当然な状況にあって、その先には大きな恵まれた体格の外国人チームに、どうやったら勝てるかってことを目指してきたわけですよね。 |
清原 |
目指すための環境条件がなかった。僕の夢として、ナショナルチームの選手と一緒に1年間休学、休職して欧州に行ったら力がつくだろうなって考えましたね。そういう必要があったと思います。豪州が強くなったのは、選手が皆働いて、自分が得た収入で欧州をまわる。そういう競技にかける人生の勇気を持っている。それでやることもちゃんとやって、それが終わるとまた働けばいいっていう考え方なんです。そのあたりの思い切りとバイタリティーはすごいですよ。 |
島村 |
日本では、欧州の水球のステータスや人気がしられていない。ローマの世界選手権を放送したとき、びっくりしたんですよ。競泳の決勝の後、夜の9時過ぎから水球の決勝があるんですよね。プールサイドにじゅうたんを敷き詰めて、ブラスバンドの演奏が始まる。「いよいよメーンの水球ですよ」ってアナウンスされる。 |
清原 |
選手とファンの求めるものは共通していると思うんですよ。日本の水球も、もっと皆が努力してトレーニングをし、お互いの力と力でぶつかり合う。真剣なぶつかり合いは面白いですよいものに人は集まります。欧州の選手には生活がかかっているから、ものすごいぶつかり合いをし、考え抜いたシュートを打つ。やっぱり選手の努力と勝負の内容の濃さは比例すると思うんです。Jリーグだって、空中戦でものすごいぶつかり合いを見せるでしょう。あれがサポーターの心を揺さぶっているのではないですか。日本の水球にも、欧州の選手が入ってきたら面白いと思います。 |
島村 |
清原さんご自信のことですが、水球の発展のため、今後はどのように生きていこうと思っていらっしゃるのですか? |
清原 |
やっぱり人間というのは、自分が一番経験して、一番自然に物事をやれるところに集約していかないといけない。僕は30年間、水球一筋ですから、趣味はありません(笑)。大学の仕事を終えたら、自分のもっているものを生かして皆さんの手助けをしたい。一生、指導者として関わっていくんじゃないかなと思いますね。 |
●大学時代はバスケット部で下積み生活。
水球を知ったのは高校教師になってから!
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島村 |
ところで、私は清原さんの学生時代のことは存じ上げていないのですが、なぜ清原青年は水球に魅かれたのですか? |
清原 |
実は、日体大に進学するのは自分の意思ではなかった。中学までは柔道と野球をしていたんだけど、まがりなりにも高校のときは勉強ばかりしていた(笑)。クラブ活動もしていなかったですね。ところが、高校の体育主任の先生に「お前は俺のあとを継げ。日体大に行って戻ってこい」と言われて。僕はクラスのまとめ役で、統率力があったんですね。そこを見込まれたようで(笑)。運動の出来る生徒はたくさんいたのに、僕に勧めてくれたんです。日体大に入ってからはバスケットボール部に籍が入れられていました。入学以来、私には苦しいことが多くて特に、電柱から電柱までダッシュをするトレーニングでは、ほかの選手に差をつけられるばかり。下積みに次ぐ下積み生活。ただ、ぼくはやめなかった。人間は厳しいところを乗り越えたら、結構楽しいものなんですよ。そういうときの気持ちが、今指導者になってもふんだんに生かされています。言葉であれ、行動であれ。 |
島村 |
そのころは水球部ではなかったんですか。 |
清原 |
当時、日体大の水球は、競泳の選手たちが集まってやっていました。ぼく自身は水球をしらなかったですし。 |
島村 |
じゃあ、水球を始めたのは? |
清原 |
東京の城北高校の教員になってからですよ。 |
島村 |
そこで水球の監督をやることになったいきさつは? |
清原 |
バスケット部で指導するように指示があったのですが、すでに顧問の先生がいたんです。その状態っていうのも難しいもので、顧問会議のときに「水泳部の水球チームに顧問がいないから、バスケットから一人移るように」ということで(笑)。それが始まりなんです。でも、最初は7人しかいなかった。「これではいけない」と、体育の時間に身体が大きくてクラブ活動していない生徒をスカウトしたわけです。体育の授業が終わると「○○君〜、清原先生が呼んでるよ〜」って感じでね(笑)その子たちの代が8名いたんですけど、3年になったときに関東大会で優勝したんです。練習はかなりハードにやりましたよ。生徒が朝7時には練習に来ていたので、学校ではダメだと言われていたけど保健室でこっそりと寝泊りしていました(笑)。 |
島村 |
では、顧問になってから水球の戦法や動きなどを学んだのですね。 |
清原 |
この競技はスピードとスタミナがあれば勝つと思いました。それと、ゴールの2m地点から中に入るとオフサイドになる。このゾーンは生かせると思いましたね。選手に「対角線に投げるから、飛び出してゴールしろ」と指示した。それが見事に決まったんです。当時は単調なシュートが多かったので、私の考えたシュートはだれもディフェンスができなかったんですね。 |
島村 |
清原さんは、純粋な水球エリートではなかったんですね。 |
清原 |
これが、水球経験者のコーチがだれも出来ない経験なんですよね。ぼくは今でもそうです。日々、水球に関しては謙虚に行動する。謙虚にやるため、人に認めてもらうためには、コツコツと継続して人のやらないことをしないとダメなんです。 |
島村 |
とても驚きました。水球でうまいシュートを打てる選手ではなかったなんて・・・・・ |
清原 |
きっと、私がトップ選手から指導者になっていたのなら、自分の生活と水球をてんびんにかけたでしょう。もう水球では楽しい思いもしている、それならば「もうやめてもいい」という考えも出てきたでしょう。だけど、ぼくにはそれがなかった。この道の開拓者にならなければ、次が続かないと思いましたしね。 |
島村 |
いやぁ〜、あの情熱あふれる清原節は健在でした(笑)。今日は本当に楽しかった。 |
終わりに |
初めて会ったときから今日まで、エネルギッシュな前向きの姿勢は変わらない。水球という日本ではあまり脚光を浴びない競技に、どちらかといえば、目立って闘志にあふれ、話し出したら止まらない清原さんはアンバランスなのかもしれない。この人がプロスポーツの指導者だったら、どんな活躍をしたのだろうか・・・・・これからもマイウェーの水球人生を、どこまでも切り開いていくことだろう。 |