スイミングマガジン・「2002年12月1日号」掲載記事
島村俊治の会えてよかった(21) ゲストは「竹宇治聰子」さんです
はじめに
 東京の地下鉄東西線・西葛西駅に近い江戸川区スポーツセンター。 <サトコ>の愛称で、東京五輪前後に大活躍した竹宇治(旧姓・田中)聡子さんは、今も子供たちとプールで泳いでいた。喘息を持つ子供達の指導を、もう14年も続けている。プールサイドには『世界新記録11』の横断幕が掲げられていた。
 <サトコ>の現役時代には、女子200メートル背泳ぎはオリンピック種目にはなかった。それでも、100メートルではローマ五輪で銅メダル、東京五輪で4位、そしてアジア大会では無敵の3連覇を記録している。ちなみに、この連載で私が「初めまして」とあいさつしたゲストは、これまでにいなかった・・・・。

大きなホテルに泊まってベッドに寝てという経験が初めてだったので
本当にうれしかった。
島村 私は竹宇治さんとお会いするのは初めてなんですが、もしかすると同い年くらいなのではないかと。あまり年齢は明かしたくないかもしれませんが(笑)
竹宇治 島村さんは何年生まれですか。
島村 昭和16年です
竹宇治 殆ど一緒です。私は昭和17年生まれですから、島村さんが1年先輩になりますね。
島村 竹宇治さんが東京五輪に出られたのは22才の時で私がNHKに入局した年なんです。アナウンサーとして水泳の放送に携わるようになったのはその後ですから残念ながら竹宇治さんのレースの実況はしていないんです。
竹宇治 ちょうどすれ違いなんですね。(笑)
島村 ただ一つだけ接点があるのはその後、鹿児島にいたことがあるのですが、九州で末弘杯高校大会の放送がありまして、そのときの解説が竹宇治さんの恩師の黒佐年明先生だったんですよ。
竹宇治 あっ、そうなんですか。それは奇遇ですね。実は今度ブラジルに行くんですが、黒佐先生のお名前が付いたプールが現地にあるんです。先生は東京五輪の数年後、ブラジルで子供たちに水泳を教えていましたので。そのプールの40周年の式典に行くんです。
島村 黒佐先生の前に、水泳を教えてくださった方は?
竹宇治 中学から水泳を始めたので、最初に教わったのは中学の西林先生に見ていただく機会があって、「高校に行ったら私が指導するから」と言っていただいて、博多の筑紫女学園へ進んだんです。
島村 ところで、今日(取材日)は10月10日です東京五輪の開会式があった日ですよ。思い出しますね、あの美しい青空を。
竹宇治 今日もそうですが、やっぱり10月10日は好天になる確率が高いみたいですよ。
島村 私は、東京五輪のときは鳥取に赴任していました。下宿のテレビで中継を見ていましたが、とにかく有名なスイマーでしたから。
竹宇治 アハハハハツ!お恥ずかしい(笑)
島村 いやいや、実力があって本当にスター選手でしたよ。また竹宇治さんの現役時代は、日本が強かったでしょう。特にアジア大会では圧倒的な強さで、金メダルをほとんど取っていましたし、竹宇治さんご自身もアジア大会で史上初の3連覇をされていますしね。
竹宇治 アジア大会もいろいろな思い出がありますが、若かったので、遊びに連れて行ってもらうような気持ちもありました(笑) 私にとって、大きな機転となったのは、東京で開催された第3回のアジア大会(昭和33年)です。初めて海外選手とレースをしたのがその大会で、そこから世の中にデビューしたという感じなんですね。高校1年の5月でした。
島村 まだ高校生になりたてのころだったんですね。
竹宇治 プリンスホテルが選手の宿舎だったのですが、大きなホテルに泊まってベッドに寝てという経験が初めてだったので、本当にうれしくて(笑)
島村 そして、その2年後・・・
竹宇治 ローマ五輪ですね。それを経て、卒業後、八幡製鉄に入社しました。

●自分なりにやれることはやって、100%の力を出すしかない、
と思って臨んだ東京五輪
島村 ところで先のアジア大会では、北島康介選手が見事に世界新記録を出しましたね。
竹宇治 良かったですね〜。
島村 本当に。で、日本水泳界の世界新記録の歴史となると、どうしても青木まゆみさんと田口信教さんの時代にさかのぼるんですが、竹宇治さんも世界新を幾つも出しているんですよね。
竹宇治 高校2年のときに初めて世界新を出してから、公認された回数を数えてみると十数回ですね。すごく昔の話でお恥ずかしいんですが(笑)
島村 いえいえ、素晴らしいですよ。でも以前は、200m背泳ぎはオリンピック種目ではなかったんですね。それについて、どう思っていました?
竹宇治 う〜ん、特にどうこうはないですね100か200、得意な方から取り組んでいこうというのが黒佐先生の方針でしたから。先ず一つ、自信をつけるためにですね。だから、200がオリンピック種目ではないというのは関係なかったんです。でも200から入った私の場合、その習性がすっかり身についていたので(笑)、100への転向は非常に難しかったですね。
島村 でも、もうちょっと時代が違えば・・・・竹宇治さんは生まれるのが早過ぎた気がする(笑)それはともかく、今に若い人たちには、水泳の歴史の中でそういう時代があったことも知ってほしいなと思います。
竹宇治 そうですね。でも、自分の現役時代が今でなくて良かったとも思います。一年中、ずっと厳しい練習をしている選手が多いでしょう?今は(笑)
島村 歴史について付け加えると、竹宇治さんが100m背泳ぎで銅メダル取ったローマ五輪も含めて、東京五輪以前の記憶って、だんだん薄れてきていませんか?
竹宇治 もう下り坂でした。練習をしても翌日に疲れが残るような感じで。また、社会人になって年数がたっていましたから、世の中のことも何となくは分かるし、自分と同じ年代の普通の人たちがどういう ことをしているかも見えていましたから、いつまでも水泳ばかりやっていていいのかなとか、正直、いろんな悩みもありました。もちろん、表には出しませんでしたが・・・
島村 当然、周囲の期待もありましたから。
竹宇治 そうですね。当たり前のようにメダルを期待されていましたけど、冷静に世界のレベルと比較して、もう私は(メダルは)難しいところにいるということを伝えたかったんです。
島村 また、日本でのオリンピックですからね。
竹宇治 周りの期待とは裏腹に、自分自身は結構追いつめられていた部分がありました。でも、まあ、自分なりにやれることはやって、100%の力を出すしかないですから、そのための準備はしようと。
島村 で、東京五輪でも日本新を出しましたよね。
竹宇治 そうです。そこで自己ベストタイムを出せたことが、その後の人生の糧になったし、今こうして水泳に携われることにつながったと思います。
島村 そういう意味では、とても大きな経験だったのですね。東京五輪の後は?
竹宇治 1年間、プールから離れました。普通のOL生活をしながら、お茶、お花、お琴、など、お稽古ごとも全部やりましたけど(笑)、なんか満たされなかったというか。
島村 それで、またプールに戻って次のアジア大会へ・・・
竹宇治 まだ泳ぐのか、と言われましたけど(笑)。やはり練習はとても大変でしたね。体もすごくきつかったですし。

●長年のライフワークとして楽しんでいる、
マスターズスイミングと子供たちの水泳教室
島村 今の水泳界全体をどのようにみていますか。
竹宇治 施設など、環境はすごく整ってきている。恵まれていると思います。今後さらに良くするためには、そうですね・・・特にトップクラスの選手が皆、プロ意識を持てるような状況にすることでしょうか。気持ちがプロなるということですが、それにはやはり、基金などの体制を整えたりすることや、努力して結果を残した選手には報酬がついてくるなどのシステムを構築することが必要でしょう。
島村 現役を退いてからも長年水泳に携わっているから、幅広くいろいろなことが見えてくるし、考えることも多いのでしょうね。ところで、現在はマスターズスイミングの世界で活躍されるのと並行して、子供たちの指導も続けているのですね。
竹宇治 自分も楽しんでやっています(笑)要するに今、私にできることは何かと考えたとき、それはマスターズスイマーの和をさらに広げるとか、喘息などで体の弱い子供たちに水泳を教えて少しでも丈夫になってもらうとか、そういうことなんですね。もうすっかり長年のライフワークになっています。
島村 竹宇治さんご自身も、マスターズ大会で大活躍中ですよね。世界新記録を次々と出されていると聞いています。
竹宇治 なんだか私でも届きそうだなと思える目標があって、それに向かっていくという感じですね。決して、世界新を取るぞと意気込むのではありません。無理して四六時中練習に明け暮れていると言うわけではないんです。
島村 しかし、そうは言っても大会会場に行くと、<戦うサトコ>になるでしょう?
竹宇治 そうですね。元選手としてあまり恥ずかしいことはできないですし。でも、自分ができることしかしません。それ以上のことはしない。「私、バックしか泳げないから、バックのレースには出させてね」と言う。あまり出過ぎると、皆に嫌がられますから(笑)
島村 レースに臨む気持ちはどうでしょう。現役時代と変わりませんか。
竹宇治  レース直前は、やはり集中しています。それまでは仲間とワイワイやって、ふざけ合ってますけど。
島村 でも、そういうふうに、集中してレースに向かっていくときの気持ちが今でもあるって、いいことですね。
竹宇治 ああ、それは確かに幸せかもしれません。一体いつまでその気持ちを持っているんだって言われそうですけど(笑)
島村 いえいえ、本当にいい水泳人生だと思いますよ。これからも、ますますのご活躍を期待しています。
終わりに
 対話の中で触れたように、 私がNHKのアナウンサーになったのが昭和39年。東京五輪の開会式は、赴任地・鳥取の下宿先のテレビで見ていた。まだ、スポーツアナウンサーになろうとは思いもよらないころ、<サトコ>は日本中の期待を集めて、あの日、国立競技場を行進していたのだ。取材におじゃましたのは、奇しくも38年後の10月10日。この日もやはり「世界中の青空を集めたような」東京の空だった。
「一流の選手はプロと同じ気持ちにならなければ」という、世界新11をマークしたかつてのヒロインの言葉を、ぜひかみしめてほしいものだ。


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