スイミングマガジン・「2002年5月1日号」掲載記事
島村俊治の会えてよかった(19) ゲストは「野口智博」さんです。
はじめに
 かつて自由形の中・長距離ランナーで活躍し、泳ぐだけでなく、しゃべる、書く、教えると、バイタリティーあふれるユニークなキャラクターが魅力の野口智博さん。
 以前、スイマガで奥野景介さんと組んで書いていた、コーチングについてのコラムが面白かった。「半熟コーチの・・・・」というタイトルで、奥野さんが<半熟A>、野口さんが<半熟B>。
 前回ご登場いただいたAに続いて、Bに会いに行くということで、千葉県市川市のスイミングクラブを訪ねた。当日、野口さんはマスターズスイマーの指導中。久しぶりに水着姿を拝見したが、彼の大好きなプロレス並みの体型になっており、(失礼!)私は少し驚かされたのだった。

●選手がどんな練習を積んできたか、
練習を見ながら想像できるようになった
島村 前回の2月号でご登場いただいた、『半熟』シリーズ(本誌90〜95年連載)の<半熟A>こと、奥野景介さんとは、アジア競技大会の800mフリーリレーでメンバーを組みましたね。
野口 86年のソウル大会です。奥野さんが第1泳者で、次が緒方茂生。<半熟B>の私が第3泳者、最後が藤原勝教でした。
島村 結果は7分36秒07,日本新のタイムで見事に金メダル。奥野さんとは、そのころから永遠のライバルで(笑)。
野口 ライバルというより天敵です(笑)
島村 やはり分が悪いという印象が?
野口 特にそういうわけではないんですが、戦う相手としていやな相手だなあとは思っていました。
島村  『半熟』シリーズは、長く続いていましたね。
野口 20代の仕事の中で、この連載が一番面白かったです。最初は奥野さんと私で連載していたのですが、その後、企画の切り口を変えまして、半熟隊のメンバーが増えていったんです。
で、そのとき一緒だった人たちは今、さまざまな形で水泳界で活躍している。そういう意味では、素晴らしい人材を輩出した連載だったんじゃないかと(笑)
島村 野口さんの二十代は、選手としても活躍した時期でした。90年北京アジア大会では、400m自由形を3分56秒32で優勝。アジア新記録のタイムでしたね。
野口 自分の中ではベストの記録。今はもう、高校生レベルですが・・(笑)
島村 現役の第一線を退かれてからは、水泳放送の解説者としてもおなじみになってきましたね。
野口 NHKで初めて使っていただいたのは93年ですが、その前に民放で一回出ているんです。TVK(テレビ神奈川)のインカレ放送でした。
島村 解説者という仕事を通じて得たものも多いでしょう。
野口 基本的にレース展開を見るのが大好きなんですが、レースに至るまでのプロセス、例えば一人ひとりの選手がどんな練習を積んできたかということを、レースを見ながらある程度想像できるようになりました。
それが自分の中では一番大きな財産になっている。後はやはり、しゃべり方、伝え方、今のコーチングの現場でも役立っています。
島村 水泳放送は、時間的に決してゆとりがあるわけじゃない。レースがたくさんあって、インターバルが短いので、その合い間にいかにして選手のエピソードなどを伝えるか・・・。
野口 日本選手権などは、わりと楽なんです。まずトップの選手とか、日本記録を出した選手とか、オリンピックで活躍しそうな選手とかに焦点を合わせてしゃべりますから。
でも、インターハイや国体などは難しいですね。出場した選手たちに、まんべんなくスポットライトを当てた方がいいと思いますから。
島村 数字をどう読むか、ということも大事ですよね。過去や最近のタイム、ランキングとか。
野口 そのほかにも、いろいろな細かいデータがありますからね。ストロークの長さだとか、速さであるとか。仕事では乳酸値や心拍数なども取ったりします。
でも、ただ数値を見るだけでは分からない。キャッシュカードで銀行の残高照会を見るのと一緒で、出た金額の数字よりも、どこでどう出し入れされたかの方が重要ですから。
島村 取材現場でも、よく働くタイプでしょう。足を使って。
野口 そうですね。朝のウオームアップを見たり、召集所をのぞいたり。選手の表情を生で見て、その場の空気を肌で感じておきたいですから。
島村 レースの結果だけにこだわるんじゃないんですね。
野口 はい。いろいろ見て、感じて、考える事が、解説者の特権だと思っています。

●トレーニングプログラムを作るプロフェッショナルが求められる
島村 解説者だけでなく、コーチングの現場も野口さんのフィールドなんですよね。
野口 マスターズなどの指導もしていますが、これから自分がもっとも力を入れていきたいのは、練習やトレーニングのプログラムを作っていくこと。今後もっと、そういうものが必要な時代になってくるんじゃな いかと思います。
例えばスイミングクラブにしても指導者の数は決して多くないわけで、その中でできることって、すごく限られていると思うんですね。プールでの指導に時間を取られると、必然的に、練習メニューを組むための勉強をする時間がなくなってくる。だから、それを専門とするプロフェッショナルが求められてくるのではないかと。
島村 それは言えるかもしれませんね。でも、そういう考えになったのはなぜ?何かきっかけがあったのですか。
野口 大学のコーチをしているときに、選手たちと接している中で、コミュニケーションの大切さを痛感したんです。だから現場のコーチとしては、コミュニケーションに集中できる環境があれば理想的ですよね。
祖に専念してもらうためにも、練習やトレーニングのプログラムを作る人材がほかにいればベスト。このように役割分担をきっちりと決めて、それぞれの仕事に集中できれば、選手育成のためにはより効果的ですよね。
島村 そこにもう一つ、例えばコーチを指導する人材というのは・・・
野口 もちろん、それも視野においています。指導者に対するアドバイスも、必要不可欠ですから。
今も、さまざまなデータを取って、選手や指導者の方へのアドバイスというスタイルでフィードバックしています。
島村 今、マスターズの指導もされていますが、一般のベテランスイマーの方々から感じ取れることってありますか。
野口 現役のトップクラスのスイマー以上に、いい意味で自分に対して多くの投資をしています。後は時間の使い方がうまい。
その根底にあるのは、やはり少しでも速くなりたいという、純粋で熱い気持ちなんです。トレーニングや健康管理に、すごく気を配っている人も多いですしね。
島村 ご自分で泳ぐこともあるわけでしょう?
野口 本当は、あまり泳ぎたくないんですけどね(笑)
島村 現役時代と比べて、体型が大きく変わってしまったから?(笑)
野口 もう笑い者にしかならないので(笑)。今日指導していたマスターズの皆さんの方が、僕なんかよりよっぽどうまい泳ぎをされるし、スタイルも良いですから(笑)
島村 今後の活動について、近々の予定をもう少し具体的に教えてもらえますか
野口 この4月から、日本大学の専任講師になりました。昨年は一年間、非常勤で古橋廣之進先生の下でいろいろな勉強をさせていただきました。でも、自分が「先生」と呼ばれるのは何となく恥ずかしいんですが。
島村 それは早く慣れないと(笑)新しいスタートになるわけですから。
野口 体育学科の学生を教えるのですが、スポーツに没頭している生徒が大半を占めているので、スポーツ選手として必要な要素を、水泳を通じてしっかり教えていきたいと思います。
島村 日大水泳部も頑張っていますね。
野口 今は、後輩の倉澤利影コーチと平野雅人コーチが、上野広治監督のもとですごく頑張っています。二人とも良い指導者になれる人材ですし、いろいろコミュニケーションをとりながら、私なりにできることでバックアップしていきたいなと思っています。

●自分の気持ちと・・・・周りにたくさん競争相手がいたことが大きかった
島村 ところで、野口さんが水泳を始めたきっかけというのは?川でおぼれそうになったからという話も聞いていますが(笑)
野口 はい、そうですね(笑)おぼれそうになって家に帰ったら、母親がすぐスイミングスクールに連絡したという(笑)ものすごく水泳が好きで始めたわけではないんです。
だから逆に、水泳を客観的に見られるという部分があるかもしれません。
島村 でも、全く泳げないところから始めて、日本代表選手になったのですから。
野口 進歩はかなり遅かったですね。水泳を始めたときからそうでした。まともに泳げるようになるまで、3ヶ月近くかかりましたし。
島村 中学からはどうでした?
野口 たいしたこと無かったです。でも、志は一人前にあった。長期の休みには、広島のフジタDCの合宿にも積極的に参加しましたし、中学の時は愛知の東レSCに転校したり、高校のときには日大豊山へ合宿に行ったりして、いろいろな経験をさせてもらいました。
島村 順風満帆でなかったこともありましたよね。
野口 大学一年のときに肩を痛めまして。練習量が増えた上に、負けたくないと思って頑張っていたので、負担がかかったんでしょうね。
島村 それを克服して、チームの中心として活躍しましたね。インカレでの思いでも多いでしょう。
野口 天敵のいる大学・・・・・早稲田大とですね(笑)、一点差くらいで競い合って、800mフリーリレーで勝った方が優勝ということもありました。
島村 大学を卒業してからも頑張っていましたが、何かモチベーションになったのでしょうか。
野口 先日、原英晃選手(日大出身/ミキハウス)と会う機会があって、彼も今年28歳になるんですが、「何で長く続けるの?」って聞いてみたんです。
彼の答えは「まだ、やり残したような気がする」というものでした。私もそうだったかもしれません。まだ何かある、まだ出来ることがあると思ったから、卒業後も続けられたのでしょうね。
島村 なるほど。
野口 大学四年間、真剣に取り組んだけど、まだ自分を出し切っていないなと。あとは小さいころから、間組の吉原一彦選手とか社会人になっても日本新を出されていた方が同じ中国地方にいて、よく練習を見る機会がありました。練習に取り組む姿勢など本当に勉強になりましたし、憧れでもありましたね。
島村 その姿勢が、北京アジア競技大会の金メダルという形で結実したのですね。
野口 自分の気持ちと・・・・あとは、周りにたくさん競争相手がいましたから。たとえリレーで同じチームであっても、皆がそれぞれ、だれにも負けたくないと思っていたので(笑)、それが好結果につながったのでしょう。
終わりに
 相変わらず、一つ聞けば三つくらいの答えが返ってくる。話の内容もしっかりしており、かつて<半熟>だった野口さんと奥野さんに、今度は<完熟>というタイトルで、次のシリーズをやってもらってはどうかと思った。
 話し方などに、いい意味でラフな印象もあるが、礼節を重んじる、きちんとした生き方を続けている。今後、ぜひ、水泳界のマルチプロデューサーになって欲しいものだ。


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