季刊誌 ぺだる VOI.17 冬号
インタビュー 石坂浩ニ
「自分で納得して印象に残るような仕事をしたい」

 日本を代表する知性派俳優の石坂浩二さん。
 「物を作るのが基本的に好き」という趣味のことや作家志望の“武藤兵吉”から俳優“石坂浩ニ”が誕生した裏話など興味深いお話が満載です。

ノンストップの生放送で緊張のデビュー

島村
 あなたと僕は田園調布小学校の同級生で、三年生まで同じクラスでしたね。僕は、疎開先の大網の小学校から入学して、二学期から編入したんだけど、お寺で授業していたクリクリ坊主の少年が、田園調布のお坊ちゃまとお嬢ちゃまの中にいきなり入って(笑)

石坂
  5月にクラス会があったんですよね。

島村
  その司会をするので久しぶりに小学校へ行ってみたら、コンクリートのグラウンドが、今見るとちっぽけなんだよね。

石坂
  斜めに走っても100メートルないでしょう。僕もずいぶん前に一回行きましたけど、まったく面影がありませんでした。田園コロシアムがちょっと見えるのだけが昔のままで。

島村
  へーちゃん(石坂)は小学校を出てから慶應で、僕は田園調布中学から早稲田に言ったんだけど、高校、大学と男声合唱をやっていて、「夢で逢いましょう」のディレクターになるのが夢だったの。その頃ある雑誌で、武藤兵吉という学生が、ディスクジョッキーか何かしているという記事を読んだんです。

石坂
  高等学校から作家志望で、ラジオの台本を書いていたんですよ。劇団をやっていて、指導してくださった中田耕治さんという、マリリン・モンロー研究科で英文学者の先生に、脚本の書き方を教わったり、日本短波放送を紹介してもらったんです。当時民放が増えて、五者協定でテレビに出られない俳優が、小遣い稼ぎにラジオのディスクジョッキーをやりたがったんですね。
 でも台本書きがみんなテレビに行っちゃって、高校生の僕にまで仕事が回ってきた。伝手を頼って、我々の劇団がTBSでドラマの通行人もやらせてもらって、これも結構お金になりました。

島村
  あなたも作る側からスタートしてるんだ。石坂浩二さんになったのはいくつの時?

石坂
  21ですね。

島村
  芸名を作家の石坂洋二郎さんからもらったというのはよく知られているけど。

石坂
  本当は違うんですよ。TBSのプロデューサーの石井ふく子さんが、台詞がある役をやりたくないかと声をかけてくださって、「潮騒」に出ることになったんですけど、石井さんが「『潮騒』のタイトルを考えてごらん。海が出てきて、そこに武藤兵吉っていう陸軍系の名前が出たらまずいと思わない?」って(笑)。それで石の字が付く名前をいくつか考えてくださって、大空真弓さんのお父さんの姓名判断で決まったんです。生放送でよくやりましたよね。裸になって薪の上を飛んだりして(笑)。フィルムでロケーションをしておいて着替えの間それを流したんです。

島村
  僕もその頃地方局でアナウンサーを始めたんだけど、朝の番組に生でナレーションをつけて、午後の再放送はまた同じスタッフで同じことをやる(笑)でもお昼食べちゃうとトチるんだよね。そういう時代でした。


歴史上の“真実”とドラマの“真実”

島村
  僕はあなたの作品を見ていて、人の人生を演じるって羨ましいなあといつも思うんだけど、普通の人もあれば、誰もが知る歴史上の大人物を演じることもあるでしょう。

石坂
  歴史上の人物をやる時は、その人が書いた物や、その人について書かれた物をできるだけ読みます。否定的に見る人もいれば崇め奉る人もいますからね。一方的に悪く言われている人でも、例えば吉良(上野介)なんて、実は全くの被害者なんです。でも脚本家の先生も歴史に則った真実は書けないと言うんですね。柳沢吉保も実際は全然違います。ただ悪役って何か魅力があるんですよ。それを僭越しながら僕がやれば、少しはかわいい所も出せるんじゃないかと(笑)

島村
  なるほど。歴史上の人物には、一般的にある種の固定観念があるからね。

石坂
  そうなんです。やっぱり太閤と言うと、最初に秀吉をやった緒方拳山、つまり吉川英治の「新書太閤記」ですから、そうじゃない部分は後々書きにくいわけです。いくらフィクションだと言っても、大河ドラマを歴史だと思っちゃう人は多いから、ちゃんと責任を持って作らなきゃいかんと思いますね。

島村
  水戸黄門も、偉大なるマンネリというけど、いかにもあなたらしく、作る側に立って新しい何かをやろうとしてるなと思った。

石坂
  やるからには、歴史上顎鬚は禁止されているんだから、髭のない黄門でと思ったんですけど、駅前の銅像から何から全部髭があるからダメだと(笑)。でも水戸徳川家15代目のご当主が、「あなたの光圀が、我々が知っている先祖の姿に一番近い」と言って、僕一人だけお墓参りをさせてくれたんです。これは嬉しかったですね。

島村
  あなたは市川昆監督にも大事にされて、いい仕事をしてますよね。

石坂
  監督の作品には必ず出てそれなりの役をやったので、求める物がだんだん早くわかるようになりました。面白いのは、「台詞の後半でほっぺたをちょっと掻いてごらん?」とかね。要するに、長い台詞になるとお客さんは台詞だけ聞こえてきて、フウッと画面から離れていくんですよ。
 そんな時頬を掻いたり咳をしたりすると、生理的な物だから見てる人はハッとするんです。監督からはたくさんのことを教わりました。他の人へのダメ出しを聞いていてもなるほどと思いますから。

島村
  役者はその年齢の積み重ねの中でいろいろな役があるけど、それをあなたはきちんと選別しながら出ていますね。僕は普段、絶対年を感じていないつもりだし、あなたもそうだと思うけど、利休のような死に向かっていく役を演じる時はどうですか?

石坂
  堺の納屋衆と呼ばれた豪族たちは、船荷を置く倉庫を所有していて、それが納屋なんですけど、有名な納屋(呂宋)助左衛門の他にも、納屋(今井)宗久、納屋(千)宗易(利休)という風に別名を持っています。その納屋衆のすぐそばに大徳寺の善寺があって、みんな商売をしながら善の修業をしているんですね。だから利休の死生観は多分に禅の世界で、運命論者みたいな所があります。立ち向かっていくよりも、それを定めとして受け止める研ぎ澄まされた美意識があって、文句も言わないし、命乞いもしない。それが秀吉をイライラさせたんですね。

島村
  さすがにたくさん勉強してるねえ。

石坂
  読むと安心するんですよ。そういう裏が書けないのは残念なんですけれど。

島村
  よくわかる。僕も放送の前は調べられる限り調べて、話を聞ける所は聞きますよ。


神奈川県交通安全協会の会長もやっています
人の人生を演じるにはまず自分を知ること

島村
  僕は普通バラエティーは見ないんだけど、あなたが出ている番組は結構見ています。例えば「開運!なんでも鑑定団」とか。

石坂
  僕は中学二年の頃から変な骨董品を買いに行くのが好きで(笑)、古道具屋の親父と友達になって、いろいろ教えてもらったんですよ。あの番組も18年になりますけど、自分でも先生方の話が本当なのか調べるので(笑)、ずいぶん勉強になりました。やっぱり本物はすごいですよ。利の作った茶杓なんて、国宝も含めていままでに8本見つかっていて、それがもう一本出てきたんですけど、スタジオに登場した時から違うんですよ。佇まいが。15,000,000円ぐらいでしたけど、「うーん、参った」という感じでした。

島村
  あなたは興味を持つ物がたくさんあるから、趣味も多いですよね。

石坂
  物を作るのが基本的に好きで、今は、“ろうがんず”という老眼の人しか入れない会をやっています。最年長は八十いくつで、ほとんどがリタイヤ組ですけど、趣味を抑えて働いてきた人たちが、定年を機にまたプラモデルでも作ってみようかなっていう。でも我々の世代になると、作るよりも、昔何を作ったとか話をするのが楽しいんです。他には絵の教室とか横浜人形の家の館長とか。神奈川県交通安全協会の会長も立っています(笑)。

島村
  やっぱり趣味にしても、人とどれだけ繋がっているかですよね。

石坂
  それには自分を知ることですよ。僕たちが小学校の頃は、なんの衒いもなくみんな国のことを考えていたけど、今は日本のことを考えると国家主義だとか言われる。そこがおかしいと思うんですよね。グローバルとよく言うけど、自分が日本人ということがわからなかったら、そんなのわかりっこないんです。他人を理解するためには自分自身を知らないと。役者も同じで、何か演じるにはまず自分のことがわかってないとダメなんです。

島村
  自分にこだわると言うかね。すごい怖いと思うのは、電車に乗ると十人のうち七人が携帯をいじってる。いつから日本の若者はこんな風になっちゃったのかなあってね。

石坂
  学校の教え方もあるかもしれませんね。彼らは周りから君はこうだ、こうしなさいって言われないと自分がわからない。それが一番楽だから、自分で自分を見ようとは思わないんですよ。
 だから誰かと絶えず連絡を取る。

島村
  そうしないと心配でしょうがないんだね。僕らの時代はそうではなかったなあ。

石坂
  みんな人とは違うことが好きで、「おまえがそんな物を好きなのがよくわからん」とか言いながらも、認めてましたからね。

島村
  あなたも僕も、学生時代からやりたいことがあって子の道を進んで来たけど、今の若い人にも、自分が一生かけてやっていきたいことを探しに行くのが学校で、いい成績を取って銀行や商事会社に入ることがすべてじゃないと言いたいよね。やっぱりやりたいことをどれだけ通していけるか。僕はプロ野球の放送をずっとやって来たけど、川上哲治さんの「なりきってみたらどうかね」という一言で、スポーツ実況アナウンサーになりきってみようと思って、NHKを辞めてフリーになったんです。でも答えは見つからない。まだ自分でも道半ばだと思ってるし、たぶんへーちゃんもそう思ってるんだろうなあって。

石坂
  そうですね。よく、「何が一番印象に残った仕事ですか?」と聞かれて困るんですよ。まだこれから自分で納得して印象に残るような仕事をしたいですからね。あとはもうそんなに働かなくてもいいから(笑)。ますます仕事を選んでやっていこうと思います。


自転車で走りながら少し高い所から見回すと、思わぬ発見がある
道路交通法はまず人間を優先に

島村
  へーちゃんは自転車に乗ってました?

石坂
  小学校のころからずっと乗っています。

島村
  えっ?石坂浩二さんが、今も自転車に乗って走ってるの?

石坂
  今乗っているのは、十二段変速で太めのオフロードっぽいタイヤがついているので、坂道が多い所ではとてもいいんです。自転車はこれからますますみんなが乗るようになると思いますね。
  すごくいいことだし、楽しいですよね。スピード感が人間の生理的な物に合ってますから。走りながら少し高い所から見回すと、思わぬ発見があるので、自分の家の周りだけでも走ってみれば、全然景色が違うことに驚くと思いますよ。ただ問題なのは、自転車は道路交通法では車なんですよね。でも免許制ではないから道交法を知らなくても乗れる。それが怖いんです。自転車を買ったら読んで下さいっていうパンフレットを付けたらいいと思うんですけどね。

島村
  歩道を走ってはいけないけど、車道で自転車がフラフラしてると怖いなあとか、いろいろ問題はありますよね。

石坂
  卵が先か鶏が先かの議論みたいになりますけど、違法駐車があるから、自転車は歩道を走ったり、車道の真ん中でヨタヨタするんだと。真っ先にそっちを取り締まったらどうだという話もあります。でも都会はいいですけど、地方へ行けば旧農道ですから、どうしても道幅に制限がありますよね。そこを自動車は自動車、自転車は自転車とすると、歩く所がなくなるので(笑)
  その辺が難しいと思います。道路交通法というのは、まず人間を優先に考えて、速やかな通行を保証しなければいけないんです。違反を取り締まるためにある法ではないんですよ。

島村
  なるほど。最後は神奈川県交通安全教会の会長さんのお話で締めくくってもらいました(笑)。
  どうもありがとうございました。



インタビューを終えて・島村俊治

 武藤君とは田園調布小学校の同級生として6年間を過ごしました。当時から色白の美少年、可愛い女の子にモテて、よく遊んでいたように記憶しています。学生時代から創作意欲に溢れ、石坂浩ニの芸名になってからは一人の視聴者として見続けてきました。彼の素晴らしさは「演じる」ことだけでなく、いつも「創る」という心を感じとれることです。このインタビューで確認することができました。これからもエールを送り続けます。



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