「松下電器バスケットボール50周年記念誌」掲載記事
マイクの向こうに君たちがいた
 初めて全日本総合決勝の放送席についたのは1981年(昭和55年)の正月だった。『松下電器 対 日本鋼管』、昔の放送資料を取り出してみた。茶色に変色したスターティングオーダー表に懐かしい名前が並んでいる。204センチの沼田、201センチの斉藤、ミドルシュートの阪田、星野、粘り強い広瀬、ジャンプシュートの三神、期待の新人中島、そして日本のバスケット界に大きな影響を与えたラリー・ジョンソン。ライバルの日本鋼管も藤本、山本、桑田、加藤、北原ら両ティームに全日本代表が顔を揃えていた。松下ベンチの指揮は清水良規監督。大男達に囲まれると姿が見えなかったが、怒声が響く元気物だった。若くして天折した選手がいることに、改めて悲しみと懐かしさを覚えるのだ。
 松下は攻撃的なティームディフェンスが特徴だった。いつも悲しげな表情で力走した沼田、ヒョロヒョロと動いた斉藤、鮮やかなジャンプシュートの三神、君たちの輝きを忘れるものではない。そしてケンタッキー大で活躍、米のナショナルティームメンバーだったラリーは今頃どうしているのだろう。アメリカのバスケットを強烈に印象づけてくれたのは他でもないラリー、君だった。今でこそNBAの中継を毎日のように見られる時代になったが、あの頃は君や、のちのクレアレンス・マーチンら一握りのアメリカ人選手だったのだ。
 昭和50年代、松下の体育館のある門真市に近い枚方の香里園に住んでいた私は、よく体育館にお邪魔したものだ。通勤の京浜電車の駅でバスケットやバレー部の大男達とよくすれ違っては挨拶を交わしたことを昨日のことのように思い出す。全日本や日本リーグで何度も松下電器の中継をやらせてもらった。優勝するシーンをしゃべったこともあれば、敗れた試合を伝えたこともある。50年の歴史の半分は私も見守ってきたことになるだろう。企業スポーツが日本のスポーツを支えてきたといっても過言ではない。しかしこれからはますます厳しい時代になる。世界の松下がこれからどう対応するのか、私はジャーナリストとして興味深く見つめて行きたい。
 縁は異なものというが、NHKを退職して今契約をしているWOWOWの社長は佐久間f二さん。松下電器の経営者のお一人だった。そして私の38年間のNHKでの最後の生中継は00年12月15日、代々木第二体育館での『松下電器 対 いすず自動車』戦だった。

松下電器バスケット部
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