財団法人 野球体育博物館コラム/博覧・博楽(23)
師の教え・解説の極意

 7月の初め、講演の依頼で広島県・呉市を訪れた。NHK時代に広島に勤務、メバル釣りに熱中し、呉を拠点に瀬戸の島々を釣り歩いた懐かしいところだ。呉二河球場は南海ホークスのキャンプ地、寒さに震えながら取材し、オープン戦実況のマイクを握った頃が無性に愛おしく思い出される。
 NHK時代からフリーに至る現在まで何百人もの野球解説者のお相手をしてきたが、その中に、私の人生の師匠が二人いる。勿論、私が、勝手に「師」と仰いでいるだけで、お二人は「弟子にした覚えはない」といわれるだろう。恐れ多くも、鶴岡一人さんと川上哲治さんである。
 「鶴岡親分」の故郷・呉市を数10年ぶりに訪れ、「親分」と過ごした放送席、旅のキャンプ、反省会と称する宴などが走馬灯のように思い起こされた。鶴岡さんと川上さんは放送席での「解説者」としてのあり方が対照的だった。鶴岡さんは「打ち合わせやテストはやらんもんや。話が死んでしまう。出たとこ勝負が面白いんとちがいまっか。ああしましょう、こうしましょうと、頭で勝手に考えても、試合の流れは、そうは行きまへんのや。アドリブでっせ」
 「石橋を叩いても渡らない」といわれた「V9監督」川上さんは、「打ち合わせはしっかりやりましょう。その試合のテーマ、見所、何を語るかをしっかり確認しておくことが大切でしょう。そうじゃなきゃ、私は解説はやりません」川上さんはスコアーブックの横に箇条書きで、その試合でいいたいことをしっかり書きとめくる。「今日は、シマちゃん、このポイントを聞いてください」2年前、85歳になられて、久しぶりにマイクをご一緒させてもらったが、相変わらず、その日、言いたいことはびっしり書きとめられていた。
 今でも、私の座右の銘は、鶴岡さんが宴席で諭してくださったフレーズだ。それは、プロ野球の、こんなシーンだった。プロ野球アナウンサーになり、ちょっとばかり自信がつき、いい気になり始めた頃だった。難波・大阪球場で南海ホークスの試合を実況していた時のこと、「打ちました。セカンド正面の何でもないゴロ、おおっと、セカンド、トンネル、これはいけない。腰も落とさず軽率なプレー。鶴岡さん、この選手はキャンプで何をやってたんでしうねぇ。平凡なゴロですよ」私は鬼の首をとったように、その選手のミスを責めた」「そやなあ、ちょっとまずかったなあ。反省してるでしょうなぁ」
その夜、一杯やりながら、親分はこう言われた。「あんたのゆうたことは、間違っとらへん。だがなあ、選手には妻もあれば、子もあり、親もあるんや。その人たちが、あんたの放送を聞いとるんや。わかるかなぁ」
 ちょっと仕事が出来るようになったからといって、「いい気になりなさんな。謙虚になりなさい」ということを諭されたのだ。今でも、マイクの前に立つとき、私は親分の言葉を必ず言い聞かせる。「親も子も妻もあるんやぜ」普段は口の悪いアナウンサーだから、なおのこと、この言葉は身にしみている。最近のテレビで売れっ子のキャスターや女子アナどもに、ぜひ聞かせたいフレーズでもあるのだが。
 「親分の説教、66歳の老アナウンサーになっても、忘れるものではござんせん」
 川上さんは人の話をよく聞かれる方だ。キャンプや試合前の取材をしたあと、必ず川上さんの方から質問が飛ぶ「どうかね、シマちゃんが見た巨人の投手陣は?」「ええっ、監督はどう見てるんですか」「放送じゃ、シマちゃんが聞くが、普段は私が聞きたいんだ」
 監督時代に使ってきたコーチで、「答えを持ってくるコーチがいいコーチだと私は思っているんですよ。状態は把握していても、答えが出せないようではコーチ失格で私は使いません。各コーチの意見を聞いた上で、私が監督として総合的に判断して、結論を出し、決断するんです」
 川上さんは禅の修業の中から「成りきる」ということを目指されたと聞いている。私も川上さんの受け売りなのだが、スポーツアナウンサー、ジャーナリズムの道を、「成りきってみたい」と思いつつ、歩んでいる。66歳になったが、まだ、ジェイスポーツのプロ野球中継で、5〜6時間は喋り続けている。3連投も「軽く」こなす。勿論、「師」の教えを守りつつ。



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